朝起きた瞬間から引き続き元気がなかった。夜中に起きたとかじゃないのに全然疲れが取れていなくて、本当は出社の予定だったけどテレワークにしてしまった。それも全然上手くいかなくて、ますます落ち込むし、お昼休みもおなかが空かなくて、ごはんを作るのも面倒くさすぎて、お昼ごはんをスキップしてしまった。私はごはんを食べるのがかなり好きなので、これは本当に具合が悪いということだ。先週からまた薬を飲み始めた(減ってるけど)ことと関係してるかしら。単にPMSの可能性もあるけど、あんまこういう感じの落ち込み方しないから、本当になんなんだろうと思う。ほっといたら戻るでしょと思ってほっといてるけど。夜ごはんはさすがにスキップしなかったけど、また適当にやってしまった。やる気あんのか。ないです。
しかし昨夜の韓国の戒厳令には本当にびっくりした。なんでも映画の話にしてしまうのはよくないが、ソウルの春という映画のことをすぐに思い出した。全斗煥がクーデターで政権を握ったときのことを題材にした映画で、ただ、あくまで史実に材を取ったフィクションということになっており、登場人物はそれぞれ名前が違っていて、私はほんとうに歴史のことを知らないので、さすがにこんな理のないこと、通らないだろう、と思っていたのだけど、歴史通りに映画の中でもクーデターは成立してしまい、本当に絶望して映画館を出たのだった。だから死者や負傷者が出なかったというのを見て、本当によかった、と思ったのだけど、それとはまた別に考え込んでしまうことがあって、というのは日本でもこのようなことがあったら、行ける距離にいるひとは国会議事堂に走るべきだ、という旨の投稿を見て、それはたしかに、と思ったのだけど、そして私はたしかにかなり国会議事堂に行きやすい距離のところに住んでいるのだけど、ではなんらかの事態が起こったとき、国会議事堂へ(あるいは他のどこへでも)私は走れるだろうか、と思ったとき、できないだろう、できないに違いない、とも思って、でもどうしてなのかな、と思って、それについて考えている。今でもよく覚えているのだけど、小学生のとき、社会科のテストの点数がつかないコーナーに、あなたが杉原千畝だったらユダヤ人にビザを出すでしょうか?という問いがあった。テストを返す時間のとき、先生が手を挙げさせたら(その是非は置いといて)、出さないと答えたひとは、30人くらいのクラスに私ともうひとりくらいで、そのもうひとりのひとがなんと答えたのかは忘れてしまったけど、小学生の私は、時代の価値観に逆らって自分の価値観を持つことなどできないに違いない、私は…、と思ってビザを出さないに丸をつけたのだった。かといっていま国会議事堂へ走らない方が正しいという価値観を持っているわけではなく、むしろ走った方がいいなとも思っているのにも関わらず、できない、と思ってしまう。間違ったことをするのがこわいのかな。それはまあ、ぼちぼちこわいが…でも何もしない方がよくない結果を招くこともこの世には大いにあるからな…それもこわいな…なんでもこわい…。これかもな。2025年の目標、リスクをとるとかにしようかな。それにしたってなぜ、なにが正しい行いかわかるのだろうか?これは反語とかじゃなくってほんとにわからないが、わかりたいと思っている。それとも、正しいかは置いておいて、やりたいことをやるのだろうか?