今日見た夢は思い出せず。
夢ではないけど、かなり夢みたいなものに近いフレーズとして「ユニコーンの世話の仕方」がある。ユニコーンを見たこともないし、飼っている人がいるという話も聞いたことがない。だからその架空上の生物の世話の仕方の話をしたってしょうがない、ということはよくわかる。でも、そういう話も面白そうだと思ったりもした。
こういうときに思い出すのは、レオ・レオニの『フレデリック』という絵本だ。かなり有名だと思うし、ここで内容を要約するのもちょっと違うかなと思うので、その詳細については割愛するけれど、ユニコーンのたとえでいうと「もしユニコーンが見つかったらどうするか」ということを先回りして考えること、あるいは想像するということについて、みたいなことだったりする。
ユニコーンが本当にいるのかどうか、ということとは別の次元で——多かれ少なかれ、それぞれに「ユニコーンの世話の仕方」みたいなことを考えたり、実践してきた人たちがいる。そういう人たちがいたからこそ、今でもユニコーンの存在が言い伝えられている、みたいなところもあるように思ったりもする。
とはいえ「これからユニコーンの世話の仕方を話しますよ〜」と言ってたくさんの人が集まるかというと、まあ集まらないよね。そもそもそういう話を「面白そう」と思って集まってくる人って、あんまり些細なことで悩んでいないような気もする。
いったい何の話かよくわからなくなってしまったけれど、そんなことを思った。
HTMLエナジーについてあれこれ思いながらHTMLをいじったりしていて感じたのは、与えられているフォーマットの中にいると、無意識に想像範囲もフォーマットの内側になってくるよな、ということ。いわゆるサピア=ウォーフの仮説でいう「使う言語が世界観の形成に影響する」みたいなことと似てるなとも思う。プラットフォームによっては短文投稿しかできないとか、限られたリアクションしか用意されていないとか、そういった制限というのは使い方によっては便利なこともあるんだけど、やっぱりどこか窮屈な感じが(個人的には)ある。できることが限られているから集中するべきすることに集中できるともいえるけど、シャットアウトしている風景もあるわけで。
単にルビを振れるとか、余白を調整できるとか、それだけのことでも「本来は、そういうことができるんだよね」という体感があるし、そういうのを今まで考えなくてよかったことでもあるんだけど、あんまり使ってなかった筋肉をストレッチしているような感じだ。でもそれもまたHTMLという1つのマークアップ言語の話に過ぎないわけなんだけどね。
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