幸福な子供時代だったんだと思う
アルバムには笑顔の私ばかりだから。
平凡で、ありふれた、優しい家庭だった。
暗闇の中、息をつめて夜をあかすことなど、両親は知らなかっただろうけど。
楽しかった思い出ってなんだろう。そんなこときかれてもすぐには答えられない。少し経ってから、あぁ、遠足の時のお弁当にハンバーグとメンチカツが両方入っていた、とか、当時大好きだったでじもんのカードデッキをサンタさんがプレゼントしてくれたっけ、とか、記憶の海に潜って手繰りだす。楽しいってコレのことなのかなと不安にもなる。どちらかというと嬉しかったことなのかもしれない。そしてこの話題が終わった頃に、あ、小学生の時にみんなでしたサッカーは楽しかったな、と急に思い出すんだ。
幸福な子供時代だったんだと思う。
人並みに嬉しかったり、楽しかったりした思い出が残っている。そのことに酷く安心する。
私が真っ先に思い出せるものが、布団の中で体を丸めていたことだとしても。
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私の中にある最古の記憶は祖父母の家の天井だ。畳の上に布団を敷いて、その上に仰向けに寝かせられていた。天井は暗い木目でできており、四角い古風な照明が佇む。終始無音の空間。
私は電気のついていない照明を見続けていた。視界の端が黒い。ちろちろと、灯籠の炎のようにゆれる。動くものへの反射か私はそればかり目で追いかけた。どれぐらい経ったか、もやがかかり天井の木目がわからなくなる程霞むと、私は照明の真ん中を見つめた。徐々に靄が侵食し、画面が黒一色に染まる寸前、私の右手が空へと伸びた。何を思っていたのか分からない。いや、何も思っていなかったのか。
その時、襖が開く音がして、黒霧はあっけなく霧散した。母親は寝転がる私を優しく抱き起こし、ゆらゆらとあやす。そしてそのまま立ち上がり、居間へ行く。母の肩に顔を乗せ、ぼんやりと窓から入る光を眺めていた。祖父母の家は私が言葉を発するようになった頃には洋装にリフォームされていたらしい。いつの記憶なのか分からない。この記憶は誰にも話していない。
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保育園に入ってすぐの頃、紙粘土と絵の具で自分の好きなものを作る時間があった。みんな友達とくっついて、おしゃべりしながら粘土をこねる。教室内は興奮した子供たちでとてつもなくうるさかった。私は、教室の入口付近の地べたに座り込み、独り無言で真っ白な粘土をこねる。そんな私を心配に思ったのか、先生が近くにやってきた。
すぐるくんは、何を作るのかな?
無言のままいると、先生は、すぐるくんの好きな動物さんかな?と言った。私は頭をふるふると横にふり、ちがうよ。と小さな声で答えた。じゃあ、すぐるくんのお母さんかお父さん?ううん。ちがう。
すると先生は困ったように、ごめんね、先生、すぐるくんが作っているもの何か知らないわ。先生に教えてくれないかな?と言った。すぐに言葉は思いつかなくて私の口からはうーーん…という声がでていた。
…テレビをつけると、ひだりにいるの。
捻り出したのは確かこんな感じの言葉だったはず。先生は目をパチクリさせた。左…?うん、ひだり。
先生は黙ってしまった。私は先生から質問されると思っていたので拍子抜けしてしまい、居心地悪くて固まりかけた紙粘土を捏ね回す。
……おんがくがなったら、くちがひらいたりとじたりするんだよ。でもぜんぜんあってないときもあるんだ。それでね、クビがのびて、ちぢんで、ヘンなうごきをね…。
そんなことを、言えなくなってしまった。
もくもくと作業をしていると、先生はポツリとつぶやいた。すぐるくんは絵の具使わないの?不思議に思って先生の顔を見上げる。先生は眉をハの字にして言った。色は粘土に混ぜて使うんだよ、って。
その時、なぜだかどうしようもなく悲しくなって、仕方がないから、私は絵筆でそいつの外側を真っ黒に塗りたくった。
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母はおおらかで優しく、柔らかな雰囲気を纏う人だ。
その日は園が休みで、朝から母にくっついて過ごした。朝ご飯はホットドッグ。トースターで少しカリッと焼けたロールパンに茹でた野菜をつめ、ぷっくらとしたソーセージを挟む。ホクホクと煙をだす真上からケチャップをかければ、なんて美味しそうなのだろう!とすぐにでもかぶりつきたくなった。そんな私の心を見透かして、母は笑って、すーくん、このお皿をテーブルまで運んでくれる?と言う。早くホットドッグにありつきたくて喜んで引き受ける。その間に母は飲み物を淹れる。小さなプラスチックのコップには並々と牛乳を、陶器のカップにはミルクティーを。母がテーブルに着くと私は待ってましたとばかりに背筋を伸ばし、大きな声でいただきます!と言う。はい、どうぞ~と促され、私は口を大きく開け、ホットドッグにかじりつく。肉汁が溢れ、たまらなく美味しい。思わずこぼれそうになる頬を両手でおさえた。母はそんな私を優しい眼差しでみていた。
しましまの虎がでてくるお気に入りのDVDを見終わると、母は私を近くの公園に連れて行ってくれた。カンカンと日射しは降り注ぎ、視界が眩しく、風景は白く飛んでみえた。どこから出してきたのか、母は私に麦わら帽子をかぶせる。まだちょっと早いけど、今日は暑いからねぇ〜。そう笑う母の顔は日傘の影に埋もれてよく見えなかった。
公園につくとすぐに砂場に直行した。なぜだか私は砂遊びがとても好きだった。園でも他の子と遊びたくない時は砂場で何個もの泥団子を、一人で黙々と錬成していた。その日はとびきりキレイな泥団子が二つもできた。母は木陰のベンチで近所のお婆さんと談笑していた。私は片手に一つずつ団子をもち、母のもとに駆け寄ろうとした。
足がとまる。
黒いのだ。
大きな無数の目玉がギョロリとこちらを向く。
そこにはお婆さんの顔があるはずだった。
母が私に気づいた。すーくんお団子作ったの?すごい上手だねぇ、とにこやかに笑いかけてくる。隣の何かは私から視線を離してくれない。冷たい汗が肌を滑る。ピキッ…パキキッ…
キャ。
短く、鋭く、耳に残るひっかく音。
思わず目を向けてしまった。
顔の中心であるはず所は、この世で一番濃い黒が渦まき、そこから分厚いガラスを無理やり引き裂いたような、ひび割れた音を垂れ流す。
私は泥団子を投げつけた。が、幼児の腕力などたかが知れている。ソレに当たる前に地面に落ちてしまった。途端に根源的な恐怖に晒され、私の喉は勝手にしゃくりあげはじめる。母はそんな私に駆け寄りとても心配そうにしてたっけ。抱きしめようと手を伸ばしてくれたのに、私はその腕を千切れそうな程引っ張ったんだ。必死に母をソレから遠ざけたくて、普段の私からは考えられない位、はり叫んだ。
あっちにいけ!カイブツ!!
カイブツは動かない。私の顔を穴が空くほど、ずっとみていた。
母はお婆さんに何かを言ってから泣き叫ぶ私を抱えて公園を出た。私は見えなくなるまで涙に濡れながらカイブツを罵倒する言葉を浴びせる。アイツもまた無音でこちらを凝視していた。
母が口を開いたのは家の玄関だった。家に帰る道中ずっと泣き喚いていた私は身体に力が入らず玄関前にへたり込んだ。あの人はしゃがみ込み、座り込む私と目線を合わせる。
すぐる。
身体が大きくビクつく。
からだの芯を氷に漬けられたようで。気道を締められたかのように。
…母からそんな冷たいものを向けられたのはこの時が初めてだったんだ。
母は私の目の奥まで見透かしてる。
あの人の目から逃げられず、じっとりと侵食する眼差しに身を捩りたくなるのに、眼前の存在は許してくれない。なんで?わたし、なにかまちがえてしまったの?どうしてそんなかおをするの?こわい。こわいよ…
覚えているのは痛いほど肩に食い込んだ母の爪と
…何があっても、人を傷つけることはいけないことなのよ。
心を、はさみで斜めに切りつけられる感触。
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…あの時のすぐるにはびっくりしたの。
いつだったか、人工的な薄暗い光の下、白湯ができるのをテーブルで待っている母親がそう言っていた。
あんなに大人しくて、優しくて、そんな子がこんなに嫌悪をあらわにするんだと。あなたの口から人を傷つける言葉がでてきたことを。
とても怖かったの。
きっと返事は求められていないから、私は黙って聞いていた。
…分かってるよ、母さん。
母さんの言ってた事はいつだって優しくて、正しかった。
でもあの時、あの時だけは、その正しさを否定して信じてほしかったんだよ。
「…おやすみ、母さん。もう寝るね。」
…もう、どうにもならないと、しってるでしょう?
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あなたのもとに生まれて幸せだと思っています。
あなたから溢れるものが私を作ってくれました。私はそれを心地よいと信じているのです。
私は十分貰ったのです。今以上を望む小さな私はあの日に延々と居座り、死骸になりました。私に必要なのは仄かなぬくもりでした。それらは破片にして冷たい骸の下に隠してあるので大丈夫なのです。それだけで事足ります。
あぁ、お願いなのでこれ以上いらないのですよ。あの子の墓はあれで完成しているのです。何を供えても生き返ることは許されずに、孤独をひしひしと抱き締めて。どんなに優しい貴方からの新品の贈り物も、か弱い骸骨への冒涜になってしまう。それだけは許容してはいけないのです。
…だから、おやすみ。母さん。
そうやって、私は赤い水溜まりに別れを告げた。
寂寥と幸福の地続き