幼馴染とBUMPに行った。なんだかんだ毎回誘われてるわりに一緒に行ったのは2019年の9月ぶりらしい、なかなかあいた。今回は結成28周年ツアーだからアルバムの予習もいらずで気軽に遠征したけれども、久しぶりにアリーナに入ったからかチケット代がめちゃくちゃ高え…と思ってしまって悲しい。手数料込みで15000円くらいする。スピッツのときはぴあとかを通さなかったのでもう少ししなかったのだけど、やっぱ1万円台前半と半ばだと受ける印象が違うなあと思った、帝劇1回分だ。
幼馴染からおもむろにネックレスを貰ってめちゃくちゃ笑ってしまったんだけど、この人思春期の自意識のねじれ拗れを乗り越えて半分くらいわたしの知らない人になってるんだなあとしみじみ思った。わたしと幼馴染はお互いに自意識過剰であることを認識しながらそれを崩すことができなくて、半年〜1年に一回は会うわりにずっとお互いにクールなポーズを崩さずにやってきてたと思う。と、考えてたけどよくよく思い出したらほんとにポーズだけで、学校に来ないわたしを貴重な昼休み使って迎えにきてみたり、学校に来たはいいけど授業にこないわたしを休み時間のたびに探し出して教室に連行してきたり(引き回しの刑)、今みたいに東京に行くから飲みこいよって言われてるのと別にやってることはそんなに変わらないのかもしれない。オープンなわりに能動的でないわたしを踏み込んで連れ出していく。でもやっぱりなんか居心地が悪くて相手は悪くないのに気持ち悪いよ〜ってなってるの、向こうだけ先に大人になっていてわたしはずっと思春期のメンタリティから抜け出せていない証拠なのかもしれない。BUMPを聴いたのもきっと悪かった。よかったけど。
向こうが結婚して奥さんが出来て、今までの恋愛も大体知っていたからこそ、逆に遠慮がなくなって遠慮が増えたのもあるのかもしれないし、わたしがスカートを履き髪を伸ばすことを厭わなくなったのもきっとある。なんかこうやって人は変わっていくけど、変わっていくと一言に言っても本人の本質が変わらずともアウトプットが変わるとか、本人が変わらずとも環境が変わるとか、本人がもちろん変わることとか、があって、関係性なんて誰かと誰かのあいだにあるものだから、片方が少しでもそうなってしまうと全然違うものになってしまうんだなあ、と己の抱える関係性を見つめていた。出会ったのが12のときだから、言うてももう思春期に突入していて、他の幼馴染は本当に子供の、幼稚園のときとかからの付き合いなので、やはりあいつには構えてしまうところがあるのだと思う。恋愛にしてくるやつらを蹴散らしながら、その実、本人たちも恋愛にみられないようにと用心してきたのが加齢によって少し構えすぎなくなってきたのとかもあるんだろう。必要以上にお前に興味がないと言うポーズを取る必要があったのが煩わしかったけど、当人たちの間ではそれ込みで出来上がってしまっていて、煩わしさがないことが少し距離が近くてこわくて、やだなあと思う。別に本人のことが嫌いなわけではまったくないが、好きだよとも言えなくなってしまってる。もう20年の付き合いになるらしい。好きも嫌いもない、というには少しだけきちんと保たれた距離と、それを繋ぐだけの努力の実績があってしまう。ずっと親友ではあると思うけど、ずっと親友ごっこをしてるだけなのかも。
沖縄の、中学までいた島時代の人たちは、基本的にはインスタ等で繋がってるけど繋がってるだけで、連絡を取ったり会おうとするのはこの子ともう1人の3人でのみで、わたしは島を捨てて出た自認があるんだなあと思った。東京賛歌とか、銀河鉄道とか、東京に出てきたときの気持ちになりながら聴いて、2人で名古屋飯を食べたあと、翌日東京に"帰ってきた"ときに、わたしの根無草加減を感じて、少しだけ寂しくなった。でも幼馴染が今度島ん人飲みあるんだよねーって話してるのを聞いてわたしがそこにいる想像は出来なかったし、きっと元々あんまり向いてはいなかったんだと思う。
やっぱりBUMPはわたしの思春期を彩る大部分を担っていて、その中には絶対に幼馴染も入ってくるし、ずっとこうなんだろうなと思った。藤くんは見るたびに神様に近づこうとしていて、でも既婚者の藤くんを見るのはわたし初めてなんだなと思うと、幸せでいてほしいって心から思った。
自分の想定していない好意を向けられると嫌だなあと思うの、友情でもそうなんだなと思ってやんなるね。