なんともまあ難解な話題ですが、ここ最近ずっと考えてきたことです。
意識は社会のどこにあるのか?ということを街を歩いていて、ずっと考えてしまいます。
野良猫にあった。すごく人懐っこい子だった。自分は猫にあったとき、撫でた。でも猫は自分が観測されていない時点で撫でられていたのではないか?…という疑問。それについて、自分は知りようがないのだ。自分としては目の前のこの人懐っこい猫が自分に挨拶して擦り寄ってきたとき、もう何も考えずに撫でた。
自分は転校も経験したし、不登校だった時もあった。その時にも強く感じたことがある。「自分が自分である」というのは自分の中の意識の連続性の中で生まれたもので、彼らにとっては、今出会った自分が「自分」なのである、と。
だから、自分が陰気な人間として生活してたとしても、ちょっと変だけど陽気な人としてその場で振る舞えば、自分は陽気な人になるんだ。
趣味の場合でも同じことがあった。自分が「ファン」として立ち振る舞えば、創作者と溝ができてしまい、一線を越えて交流はできない。あくまで生産者と消費者になる。あくまで彼らから見て、自分は有象無象の1人でしかなく、特別扱いはない。
しかし、自分が「自分もアーティストですよ」とその場に立つと、対等な立場として会話することができた。
これは色んな世界であると思う。
例えば、普通に入社し、社員として働くと、その天井は課長やもしくは部長程度だと思う。でも「経営者」として交流を図れば、もっと上の立場として会社に入れるのではないか、と。
スポーン地点は自分で選べて、「寄せる」必要はないんだと思った。
ファッションの世界では「ポーザー」即ち「外側だけを真似る人たち」という言葉がある、つまりこれはどこからかその界隈に来て「寄せた」人になる。
でも界隈は広いので一概にそうとは言えず、「これが自分のスタイルですよ、何かを真似たり影響されたのではなく、これが自分ですよ」と堂々とそこにいれば誰も文句は言えない。要はアイデンティティを揺らがす必要はないんだ。ファッション、音楽、好きなことについて「知識」の差で人は優劣をつけたり、「ポーザー」かどうか見極めようとする。その人たちのアイデンティティは「知識量」にあり、自分がただ「内側」の人間か、相手が「外側」の人間かを意識する。
これは境界維持boundary maintenanceという言葉がついているらしい。
つまり、境界の不安定なもの同士が互いに監視し合い、他人を排除することにより、自分が内側にいると安心する構図になる。
これは、個人的に意識の連続性にあり、円の外からしか境界にアクセスできず、円の中から発生することの発想が存在しないように感じた。
仕事を辞めて頻繁に引っ越す人は、この意識の点在を体感して気楽さを感じるのじゃないだろうか。リセット癖がある人も「連続する意識の中の自分」が嫌なんだろうか。
今日の話はここまで。