日記というものについて

nersonu
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小学生や中学生、さらには高校生のころから、日記というものを続けようと何度か挑戦してきました。勉強に使っているようなA4のノートやB5のルーズリーフとは、一回りくらい小さいサイズの、ちょっとくすんだ紫色のノートで書いたことがあったのをよく覚えています。シャーペンを使って手書きで、今日あったことをまとめたり、ふと思ったことを書いたり、小さな物語を綴ったりしたり。そうやって最初は調子良く続くのですが、一日でも途切れてしまったときにはもう手遅れになっていて、そこで飽きてしまってやめてしまったりして。よくある話だとは思いますが、とにかく継続力が無いなと今の自分に対しても思うことは多いです。日記については、自分をよく表しているものでしょう。

そもそも常日頃思うこととして、「飽きっぽさ」という部分と「集中力がない」という部分が別々にかつ、どちらも同居しているのが厄介だなあと感じています。もちろん、関連性のある部分も大いにあるでしょうが、後者に関していうと、どうしても周囲や外的な情報が気になってしまって、目の前のタスクに入り込むことが難しいなと感じることがあります。スイッチが入ってしまえば、いわゆるタイパが良い活動をしているなと感じる部分もあるのですが、どうにも続いても切れる時間も早いので、なんだかなという気持ちになりますね。三日坊主どころか、三十分坊主くらいのものです。集中したいときは、よくノイズキャンセリングの機能がついたイヤホンやヘッドホンで、アップテンポの曲を聴きながらタスクをこなしてごまかしています。これは一定の効果があって、コードを書くときなんかは有効です。一方で最近は、敢えて曲を聴かずにオフィスで雑談しながら仕事をし、低い集中力で仕事の今後について話をしたりをすることで、結果的に集中した際のパフォーマンスに寄与したり、業務全体の効率化になっているような気もしなくもないです。この効果検証は今後の課題とします。

ところで、子供の頃から日記というものを書いていたということが、大学で文芸サークルに入り、そこで小説で自身の鬱々とした陰気な文を出力し、現在に至っても長々と曖昧模糊たる何が言いたいのかわからない文章をしたためることに抵抗が無い状態を作り上げているのではないかと感じます。飽きっぽさの中で微小ながら実行したことが、血となり肉となり、そして脳となって、今週もひねくれた人間の文を出力していると考えると、案外悪くないかもしれません。