マタイ2:1-12(前)

neurakko
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 クリスマスも年末年始もすっかり過ぎて休み明け.書き溜めようと思っていたら,一生書きあげられないことに気づいたので後編に続きます.

1章後半で,マリアとヨセフのもとに御使いが現れ

「マリアが身ごもった子は,聖霊の御業であり,その方によって民が罪から救われる」ということが告げられました.

そしてクリスマスの日,イエスがベツレヘムで生まれます.

- 12/25は正確にはイエス誕生の日ではない,とされています.

しかし,日付が大切なのではなく『イエスさまが人としてやって来られた』という事実を思い起こすことが焦点であり,上記の批判は余り的を得ていません.誕生されたことはいつ祝ってもよいのです. 

だからといって,毎日クリスマスだと逆に忘れそうなので特別に定めた,という理解でよいかもしれません.

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イエス誕生のその様子は,[ルカによる福音書]に美しい描写があります.

マタイ2章は,この誕生から時系列的には少し経ってからのことと言われますが,イエスの誕生にあたって象徴的な箇所にもなっています.

0. この章を読むにあたって

 マタイ書と他の福音書(特にルカ)と比較してみたときに思うのは「キリストの誕生,その瞬間ではなく,なぜマタイはこの場面から書いたのか」ということでしょう.

他の福音書との兼ね合いかもしれませんが良く分かりません.

 しかし,聖書を真の神のことば,として捉えるとき,神さまが筆者を通して語られるべきメッセ-ジがあったと分かります.

今回の箇所で個人的にポイントに感じた点をいくつか出してみます.

  1. なぜ,マタイはイエスの誕生をここから描いたのか

    • 福音が異邦人に知らされた。

      博士たち(占星術師,天文学者と言われている)に知らされる

      クリスマスの物語の多面性(ルカでは,まず羊飼いという1番弱く

      貧しい存在に現れる)

  2. 「礼拝」を目的として遠方からやって来た博士たちの選択,決断.

    ユダヤの民ではなく,異邦人の地で生きる信仰

  3. 人々の心を暗く,頑なにさせる.

    • 律法学者たちは救い主を尋ね・求めてきたが,博士たちの来訪によっても知ろうとしなかった.

    • 殺そうとする.

       自分にとって脅威となるもの,受け入れがたいものへの拒絶反応

  4. 動揺(恐れ)する

    • エルサレムの人々

      神の民として選ばれながら,目が閉ざされている.

    • ヘロデ大王

      親ローマ派として,ローマからユダヤ王の地位を与えられた.

     神殿建設によってユダヤ人から票を取ろうとするが,ローマに迎合する

     ことへの反発から反感も大きくなっていく,武力支配による圧政.

     ヘロデは自身の失脚を畏れていた.

聖書はそれを読む私たち自身の立場,場面によって多様な見方を映します.

博士たちのように,告げ知らされた福音を求める者として.

エルサレムの人々やヘロデのように,一方は無関心で,一方は拒絶して,耳をふさぎ,心頑ななまま,その福音を受け取ることができない弱さを持った者として.

それは時々によって,変わりますから誰もが同様の受け取り方をせずとも,神さまが働いてくださることを祈りつつ,今回も読み進めていきましょう.

1. イエスを訪ねる博士

2:1-2イエスがヘロデ王の時代に,ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき,見よ,東の方から博士たちがエルサレムにやって来て,こう言った.

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は,どこにおられますか.私たちはその方の星が昇るのを見たので,礼拝するために来ました.」

 博士たちは「ユダヤ人の王が生まれ,その方の星が昇るのを見たので来ました」と言います.

そもそもこの博士たちは何者なのでしょう?

仲介書などを引くと,占星術師や天文学者であったのではないか,と言われています.

東の方から,ということはユダヤ民族ではない『異邦人』に当たります.

最近は科学の発展により,この宇宙の地図の解析はかなり進んでいます.100億光年以上,この宇宙が創成されたとされる時期に近いであろう星も人間は見つけています.

どのような化学組成で,どこからやってきて,どのような歴史を辿ったのか

そういった事まで検討が付けられるようになってきました.

とはいっても,この宇宙のほとんどは未知に包まれており根本的な

「なぜ,この宇宙が創成されたのか」,「どのように創成されたのか」という部分を取ってみると予想は出来ても,そこには不確かさが積み重なっています.

当時の天文学者や占星術師がいくら博識であったとしても「ある星が現れた理由」は導くことができると思いませんから,星が昇ったとき,彼らはこの事象と「ユダヤの王が生まれた」ということを何かしらの方法で気が付き,結びつけた,ということになります.

 博士たちは「東の方から」やってきたと書かれていますが,エルサレム東方といえば,現在はイラクやイランなどがあり,この一帯は新バビロン王国とも重なっています.

旧約聖書の中では『バビロン捕囚』として多くのイスラエルの民はバビロン王国に行くことになりました.同時代,エレミヤやダニエルといった預言者が立てられ,主の言葉をいくつも預言します.

捕囚の後,ユダヤ人はエルサレムに戻る者もいれば,ディアスポラとして世界に離散していきます.

もしかすると,この博士たちの気付きはというのは,預言者やイスラエルの民を通して語られたと考えるのは自然なことに思えます.

このほかにも,民数記24:17には関連するような預言があります.

以上のことは明確に記されているわけではないので,推測になってしまいますが,聞くことなしに,宣べ伝えることなしに,信じることなしに『気付き』は与えられません.

イスラエルの民ではない,異邦人(他所者)に主の誕生という喜びの知らせは,いち早く啓示され,預言にある「ユダヤの王」を探し求めさせたのです.

2. それぞれの反応

 ヘロデ王や人々の反応はどのようなものであったでしょう.

2:3 これを聞いてヘロデ王は動揺した.エルサレム中の人々も王と同じであった.

2:4 王は民の祭司長たち,律法学者たちを皆集め,キリストはどこで生まれるのかと問いただした.

2:5 彼らは王に言った.「ユダヤのベツレヘムです.預言者によってこう書かれています.『ユダの地,ベツレヘムよ,あなたはユダを治めるものたちの中で決して一番小さくはない.あなたから治める者が出て,わたしの民イスラエルを牧するからである.』」

 博士がやってきた時,ヘロデ王,イスラエルの民はどちらも『動揺』しました.

ヘロデ王にとっては,自分自身の地位が脅かされるのではないかという不安が考えられます.彼は様々な方法でその地位を確立しましたが,そこにあったのは平安ではなく,失脚や下剋上に常におびえる日々であったでしょう.自分の力に頼るとき,その地盤はもろく,崩れやすいものです.

 一方,律法学者について,彼らが『動揺した』のは救い主,ユダヤ人の王がやってきた喜びではなく,ヘロデ王への恐れに対することであったのかと思います.

彼らは王にキリストが生まれる場所を問われると,ミカ書5:2から,その場所がベツレヘムであることが預言されていると言いました.

律法学者たちは,聖書の知識も多く,自分たちの救い主が来ることを待っていましたが,マタイ2章で律法学者はこの後登場しません.

突然やってきた見ず知らずの人から聞いた情報にピンと来ない気持ちも理解できます.ですが,異国の地からエルサレムまで遥々と,高価な贈り物を携えた旅人がやって来れば「何かあるのだろうか」と思うはずです.

あっているのか間違っているのかはともかく,1度自分の目で見てコトの真相を知ろう,というフッ軽律法学者が1人くらい立ち上がっても良いような場面に思えます.(現在の地図を見るとエルサレム-ベツレヘムはおよそ10km程度と,感覚的には徒歩でも日帰り出来そうなコース)

彼らの心は,様々な歴史を経て冷え切っていたのでしょう.後にイエス様が伝道を行う中で,律法学者たちを責めるように,形式や地位・名誉に囚われていたのかもしれません.

 ヘロデ自身も何かの間違いだろうと思ったかもしれませんが,その心には絶えず自分の立場を失うことへの恐れがあります.

2:7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで,彼らから,星が現れた時期について詳しく聞いた.

8 そして,「行って幼子について詳しく調べ,見つけたら知らせてもらいたい.私も行って拝むから」と言って,彼らをベツレヘムに送り出した.

2:16にヘロデによるベツレヘム一帯の幼児を皆殺しにする,という行為が書かれています.ヘロデは最初から拝む(礼拝する)つもりなどなく,自分を失墜させようとするものを悉く排除しようとしました.

そこにあるのは主が来られた喜びと平安ではなく,自分の力で勝ち取ったものが奪われるのではないかという不安があります.

聖書では,イエスはご自身のことを「妨げの石,つまずきの岩」と表現する箇所がありますが,真理から外れた人々にとって,イエスの存在は誕生の時からすでに「つまずきの岩」となっていました.

3. ともに導かれる主

9 博士たちは,王の言ったことを聞いて出て行った.すると見よ,かつて見たあの星が,彼らの先に立って進み,ついに幼子のいるところまで来て,その上に留まった.

10 その星を見て,彼らはこの上もなく,喜んだ.

11 それから家に入り,母マリアとともにいる幼子を見,ひれ伏して礼拝した.そして宝の箱を開けて,黄金,乳香,没薬を贈り物として献げた.

 博士たちはエルサレムからベツレヘムに向かいます.もしかすると,彼らは王のもとから出るまで「ここからどこに進めば良いのか」と思っていたかもしれません.しかし,そんな彼らの前に「あの星」が現れます.東方から彼らを導いた「ユダヤの王が生まれたしるし」の星です.

星が先に立って進む,というのは旧約出エジプト記13:21-22にあるイスラエルの民を導いた「雲の柱・火の柱」を想起させます.

エジプトを出たイスラエルの民は自分たちの旅がどのくらい続くのか,どこへ向かうか分かりませんでした.しかし,主は彼らと共におられ,彼らの旅路を導きました.

博士たちの旅路にも主がともにおられ,先を進み,彼らを主イエスのもとへと連れていくのです.

ようやく幼子イエスさまに会うと,博士たちはひれ伏して礼拝し,3つの贈り物(黄金,乳香,没薬)を献げました.

聖書の記述を見る限り,当時のイエスは1歳〜2歳くらいです.しかし,博士たちは,イエスこそ真の王であり拝される方であることをわきまえていました.

旧約聖書ではイザヤがこのように預言しています.

イザヤ9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる.ひとりの男の子が私たちに与えられる.主権はその肩にあり,その名は「不思議な助言者,力ある神,永遠の父,平和の君」と呼ばれる

博士たちのわきまえによって,ここでの"私たち"がイスラエルの民だけでなく,全人類のためにイエスが生まれたことを知ることが出来ます.

キリストはユダヤ人の王でありましたが,その主権はユダヤだけに留まらない,異邦人に,そして私たち1人1人への救いと平安をもたらしました.

4. この上もない喜び

 最後に,スッと読み飛ばしそうな所ですが2:10 で「この上もなく,喜ぶ」表現がなされています.彼は何に喜んでいたのでしょうか?

旅の終わり?研究成果/占い結果の正しさ?/イエスさまと会えるよろこび

色々と考えていたのですが,1つ自分の中でしっくり来たのは「礼拝への喜び」ということです.

大半のキリスト者は週のどこかで教会へ行きます.大抵の場合,日曜日午前であることが多いです.

行って何をするかと言えば,讃美歌を歌い,メッセージを聞き,祈る.時に「奉仕」の名の下での労働が行われることもあり,会議があることもザラです.平日も仕事があるというのに,折角の休みである日曜朝から教会に行くのです.ここまで書いていて正気の沙汰じゃないように思えてきました.

しかし,そこに行く理由があります.

それは,主と出会い,ともに礼拝するということです.

私たちが神様を知らなかったときから,神さまはその慈しみと忍耐と寛容によって,私たちを先導してくださったのです.日々を生かされ,導かれ,その日その場所に集うことが出来る.そこに感謝と喜びがあります.

「いやいや,主がインマヌエル(遍在)なら礼拝するのは日曜でなくてもいいし,家でも良いのでは?」

いや,本当にそれ,って気持ちです.

日曜日にとどまらず,1人でも家でも,学校でも,会社でも,どこでもして良いんです.イエスが来られたことによって礼拝には「神殿」に行く必要もなくなったのですから.

ですが,私たちは弱いものです.エデンの食べては行けない方の実を食べ,絶対やったらダメと言われているにも関わらず行い,神さまからどんどん離れていってしまうものです.

だから「ともに」礼拝するのです.

同じように弱さも欠けもありながら.罪を持ったままでありながら.主の前に進み,ともにそこで主を拝するのです.

そこで与えられた喜びがどれ程のことか.満ち足りた生活の中では感じ取ることが難しいかもしれません.

今まさに戦火や被災の只中にあって,祈ることもできない状況に置かれている人を覚えるとき,ともに同じ主を見上げることが出来ることが,主の救いを知っていることが,どれほどの喜びであるでしょうか.

博士たちは別に特別であったとは思いません.

知る機会が早かった,という意味では特別であったかもしれませんが,彼らも私たちと同様に一人間です.信じようとしない周囲からの批判,嘲りもあったかもしれません.

しかし,彼らの旅路はたしかに守られ,ともに旅をした友人らと共に王の誕生をその目で見て,祝うことができたのです.

そこにも大きな喜びがあったのではないでしょうか.

5. 祈り

天の父なる神さま.御名を崇めます. 今回も聖書を通して,イエスさま誕生の喜びを知ることができたこと感謝いたします. 

私たちが日々あなたに無関心でないように.心を開き,あなたにある救いを喜び,友との交わりに感謝し,あなたの導きを訪ね求めるものでありますよう助けてください.

全ての主権をあなたに返し,イエスさまの御名によって祈ります. アーメン.