1/22 雑記:ヤコブの手紙を読んでみよう

neurakko
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 今週から僕の通う教会でヤコブの手紙の講解が始まりました.

ヤコブというのは聖書では色々なところで見かける名前で,そこまで珍しい名前ではありません.ただ,ここでの"ヤコブ"は,イエス・キリストの兄弟ヤコブ,とするのが基本的な見方です.

どんな手紙なのか

 期待を持って臨む我々にこの手紙が突きつけるのは,鋭い訓戒,強烈な言葉の数々です.ルターが"藁の文/書"といったというようなこともどこかで聞いたかもしれませんが,見方によっては躓きになるのでは,と思われる書簡でもありますし,しかし聖書に載っている言葉が躓きを招き,私たちを主の愛から遠ざけるようなものなのでしょうか?

その全貌を探るべく,我々はヤコブの手紙の奥地まで足を踏み入れていく必要があります…

ということで,折角ですし僕の感じたことをまとめておきます.

1. ヤコブとはどのような人だったのか

1章1節は挨拶から始まります.

手紙の序文は,パウロやペテロの書いた他の書簡同様に,自己紹介から入ります.

「初めまして,私はこういうものです」

そんなことが冒頭で書かれています. 

1 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが,離散している十二部族に挨拶を送ります.

「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが」

冒頭で書きましたが,このヤコブというのは,イエスの兄弟でありました.幼少期からともに同じ屋根の下で過ごし,大工の息子として共に働いてきたでしょう.

しかし,30代のある日,兄は「神の国は近づいた」といって,12人の弟子をスカウトし,時に大勢の群衆を前に語り始めるのです.

おまけにイエスが「私の父」というのは実父ヨセフではなく,イスラエルの神,自分たちの崇める主その方です.

複雑な感情,反対の気持ち

 神への冒涜!でも語っていることは間違っていなさそう…

確かに!でも実兄だし…

自分の兄弟が,いきなりそんなことをし始めたら困惑することがあるのは仕方のないことでしょう.

福音書によれば

マルコの福音書3:21

これを聞いてイエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた.人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである.

ヨハネの福音書7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである.

身内(兄弟)たちは,イエスのことを信じてはいませんでしたし,ヤコブもその1人でした. 彼がイエスを信じたのは,イエスの十字架の死,からの復活以降だったと考えられています.

 

コリント人への手紙 第1 15:7

その後,キリストはヤコブに現れ,それからすべての使徒たちに現れました.

 こうしてヤコブは信じるものへと変えられていったようです.

それを踏まえて,この1節を見ると

「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」という彼の紹介は,見えていなかった目が開かれた,と言えます.

神は唯一である,と信じるヤコブが,神とイエスこそが1つであり,また自分の主である,という確信に変えられ,それを力強く宣言しています.

『しもべ』には奴隷という意味も含まれます.ある主人に繋がれた状態,その主人へ仕えている状態,主人の許しなし何もできない,ということです.

ですから,この書簡の中心にあるのは紛れもなく神と主イエスへの忠誠に他ならないのです.

2. 主を知ったものとして生きる

  さらに少しだけ掻い摘んで読んでみると

1:2 私の兄弟たち.様々な試練に合う時はいつでもこの上もない喜びと思いなさい.3 あなたがたが知っている通り,信仰が試されると忍耐が生まれます.4 その忍耐を完全に働かせなさい.

2:17 同じように,信仰も行いが伴わないなら,それだけでは死んだものです.

 強い口調が並びます..

脱出の道を備えてくださる.とか

重荷を負った人は私の所に来なさい,といった優しい愛のまなざしはどこへ行ったんだと思うこともあるでしょう.

キリスト教は信仰義認(信じることによって,神の一方的なあわれみによって救われる)と言いながら律法主義,律法や行いによって義と認められるんじゃないか.

 そんな風に捉えることも出来ます.

ヤコブの手紙は口に入れたとき,あまりの熱さ,辛さにビックリしてしまうこともあります. しかし,書かれている言葉は,これまで聖書に示されてきた文脈と相違なく,"あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ"という最も重要な律法へと帰結していきます.

ローマ人への手紙5章では

5:2 このキリストによって,私たちは,信仰によって今立っているこの恵みに導き入れられました.そして,神の栄光にあずかる望みを喜んでいます.

3 それだけでなく,苦難さえも喜んでいます.それは,苦難が忍耐を生み出し,4 忍耐が練られた品性を生み出し,練られた品性が希望を生み出すと,私たちは知っているからです.

5 この希望は失望に終わることがありません.なぜなら,私たちに与えられた聖霊によって,神の愛が私たちの心に注がれているからです.

私たちは既にキリストによって恵みに,主の救いにあずかっている.

だから,失意のとき,苦しみにあって主がその涙を喜びに変えて下さる(詩編126),共に歩んでくださることを知っているから,苦難を忍耐することを喜ぶことが出来る,とパウロは書き送ります.

イエスさま御自身も,マタイ5章から始まる山上の垂訓では次のように語られました.

マタイ5:16 このように,あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい.人々があなたがたの良い行いを見て,天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです.

マタイ7:21 わたしに向かって「主よ,主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく,天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです.

  私たちは信仰によって,主イエスを信じることによってのみ救われることには間違いがありません.

しかし,その信仰を深め,主と交わりを続けていく中で,そこに行動が伴っていくのは,自然の発露ではないでしょうか.

主が自分に与えて下さったものを知っていくとき,主が自分を救いの道に引き入れて下さったように,私たち自身も,与えられたタラント(賜物)を持って,主に仕えていくのは必然ではないでしょうか.

ヤコブの手紙は,この山上の垂訓と共に読み進めることが多くの意義をもたらしていくと,僕は信じています.

それに加えて,ヤコブの手紙がなければ,自分の陥った罪を認識することもできないかもしません.

 律法主義,ではなく,自由をもたらす完全な律法によって,生かされていく事を祈りつつ.久しぶりにヤコブの手紙を読んでみるのも良いのではないでしょうか.

3. 祈り

天の父なる神さま,御名を賛美します.

あなたがヤコブの手紙を通して私たちに語り掛ける言葉は,時に心を刺し貫くような痛みを伴って聞こえてきます.躓きを覚えるかもしれません.ですが,ヤコブ自身が,イエス様を信じる者へと変えられ,その生き方を変えられたように,どうか私たちが,あなたの言葉と限りない愛を知った者として.その信仰によって動かされていくものでありますように.導き助けていてください. 

すべてあなたに期待して委ね,愛するイエスさまの御名によって祈ります.

アーメン