久々に映画「アバウト・タイム」(https://eiga.com/movie/79496/)を見た。昔からではあるが、好きなものや好きな事は何度も繰り返すたちで恐らくこの映画も同じ部類に入るんだと思う。同じリチャード・カーティス監督の作品「ラブ・アクチュアリー」(https://eiga.com/movie/1115/)も漏れる事なく何度か見ており、あまり意識はしてないんだがロマンティックラブコメディーが好きなのかもしれない。
人の幸せや人生の豊かさのようなものも描くという点ではとてもありきたりの結末ではあるが、それを少しとっつきにくく不器用なものとして登場人物や群像を設定しながらも、それを多少のぎこちなさを残しつつオシャレで彩豊かなものとして演出していく所に、何かいつも心を動かされてしまう。今回も割と早い段階から涙腺が崩壊し、ティッシュ両手に嗚咽を隠しながら号泣し続けるという、まぁ誰も見たくもない姿を晒していたわけである(夜中で誰もいなかったので助かった)。補足をすると、初めてでもないので他の事をやりながら傍目に見ていた程度のはずだったのだが。
その上で改めて、何が、何故、どんな琴線に触れさせられて心を動かされてしまったのだろうかとふと立ち帰った。昔のような妻との関係に思いを馳せたからかなのか、成長する子どもたちとのかけがえのない時間の大切さを痛感したからかなのか、はたまた齢80近い両親の終活に向けてなのかとか。。一応一つずつ考えてみたわけだが、あまりどれもピンと来なかった。正確にいうとどれもピンと来なかったというわけではないし、どれも少なくとも少しはそう思っているのだろうとは思ったが、果たしてここまで涙腺がボロボロになるまでのものかというと違うな、と。そう考えた時に、先日友人と飲んだ時の事を思い出した。
ちょうど1週間前、私が敬愛してやまない7つ上の知人と6年ぶりに飲んでいた。忙しい方でもあるので久々にゆっくり話せて嬉しかったという事もあったのだが、何よりこの6年間で自分の考えや捉え方がどう変わったのかを話す事で感じたいという、まぁ実に他力本願かつ贅沢な時間として使うつもりだった。その為、兎にも角にも質問攻めをしまくっていたわけである。他にも山ほどあるのだが、分かりやすい所で言うと今どういった事に重きを置いて時間を使っているのか、それは何故そうしているのか、などである。ただ、どう聞いていっても、何故そうしているのかについての論理的な説明が見たらない。むしろ、そこに理由は必要なのか、といった具合で最初は物足りなさも感じてはいた。ただ、最終的には彼と同じ結論に私も至ったのである。
振り返るとこの6年、私は誰かしらに何かを動いてもらうためにただひたすら自分自身のやってきた事を振り返り、そこから得た学びを元に、数字や論拠を立てて説明してきたわけである。もちろんそれが意味のない事だとは思わないし、むしろこの資本主義のルール、かつそれを最も効果的に表現するツールとして、分かりやすい論理的な説明と、単純な方程式に如何に落とし込むかが人を動かす為の解である。逆説的に言うと、複雑にしておく事こそ興味深く人をエンゲージさせるものだとばかり思っていた私からすると、あるフェーズ以降全く人がついてこなくなった事で理解したという、全くのビジネス音痴だっただけなのだが。その為、私はむしろ新鮮なものとしてこの資本主義的なルールや法則の虜となって、ありとあらゆるものに、不必要に理由を求めるようになっていた。
仕事であればまだしも、本来人は別にあまり理由など考えてはいないはずである。例えば子供がひたすら何かに取り組んでいる時に「どういう所が楽しいの?」と質問しても「分からん」としか返ってこないわけだし、キャリアデザインで悩んでいる人に「今あなたに置かれている制約が何もないとしたら、本当は何をしたいですか?」というのが最適な質問のパターンであるというのなんかも同じ類の話であると思っている。本来は「そこに山があるから」です、以上のものに理由をくっつけたがり、制約ばかりで考えられない人にはその枷をとってあげる。ただ本来いずれの質問も大した意味はなく、いずれにせよ人は、理由や根拠、目的をつけたがっているだけなんだと思う。これまた嫌な言い方をしてしまえば自分自身にさえも理由や目的をつけて何も考えなくて良い方法を編み出しているだけなんだろう。あと、理由や目的を持っている人の方がカッコよく見られやすいとかそんなステレオタイプもあるんだろう。だからこそ逆に「そこに山があるから」という人の方が変わっていて、特別な人のように見られがちではないだろうか。あの人の生き方は特別だよね、マネ出来ないよね、みたいに。ただ、
I try to live every day as if I've deliberately come back to this one day to enjoy it as if it was the full final day of my extraordinary, ordinary life.(私は毎日を、これがまるで私が敢えてこの日に戻ってきたかのように、私の非凡で普通の人生の最後の日のように楽しむように生きようと努力している)
これはアバウト・タイムの中のワンフレーズだが、本来は正に"ordinary life"のフレーズに尽きるのではないかと。"try"か"enjoy"かは、皆がいずれかに当てはまるとは思わないし、むしろ"duty"なものとして捉えている人も多いだろう。ただ、裕福さや豊かさはどうであれ全員に共通する事は、大きな生物の営みの中で誰しもが平等に"ordinary"にしかならない事である。だからこそ、一度立ち止まって自分自身として、このありきたりで平凡な人生というものを考えてみても良いのかも、と思った。つまり「そこに山があるから」を考える事のほうが本来の平凡なはずである。「理由なんて考えない」、それこそ理由なんて考える必要がない、という事である。
大切な事は、目的や理由を考えて行動するのではなく、とことん自分は何が好きなのかを理解する。突き詰める。どれだけ誰かに邪魔をされようが、揶揄されようが好きでい続けられるまで、あと3センチだけの勇気を持って踏み込んでみる。本来はそれを10代に気付き、20代からはそれに明け暮れる事を周囲にはオススメはしたい。少なくとも私はそうはなりきれなかったし、同様の人も多いと思うが。アバウト・タイムやラブ・アクチュアリーのような描かれ方が人の心を揺さぶるのは正にそこであろう。この複雑で入り組んだこの現代世界の中で揺れ動き、不器用な生き方しか出来ない人間という生き物に興味を惹かれ、あぁいう描き方とハッピーエンドに胸を打たれる。
まぁそう考えると自分自身が、もっとスッキリとした気持ちで人生を歩めないかと悩んでいる事こそ、何よりその自分を否定し、ステレオタイプのカッコよさを重視していたんだと気付き悲しくなったわけでもあるが。。そしてまた現代社会に戻った瞬間に目的や理由に明け暮れる日々になってしまうのは目に見えているので、まずは備忘録としてこれを立ち返る原点として記しておこう。