人が安易に死ぬ物語って実際必要なの? 悪役の手が付けられない恐ろしさのために死ぬ人間の数が比例していく。一気に3人。5人。10人。50人。100人。その中に含まれる人の人生を考えてしまう。ひとりひとりに人生があった。バスに乗って歩道を歩く人たちを流れるように見る度、ひとりひとり思考の違いがあって、記憶があると思うと、人間の愛おしさに圧倒される。人間は尊い、と言うと不慣れな言葉で気恥ずかしくなるが、人が好きだ。人の数ほど思考の多さと、記憶のパターンがある。
かと言って1人の人生を追って写したドキュメンタリーは好きになれない。よりドラマチックに描かれた演出がなんか嫌だ。元になったその人にしか分からない細やかな心情は無視されて、視聴者のために用意された意図的な場面で一喜一憂をしろ、と言われているみたいだ。表面的で奥行きがなく苦しくなる。
それでも人は物語を必要としている。実際に目の前で起きている出来事でさえ、人は意味を見つけたがる。どうしても物事に理由を付けて、勝手に納得しようとする。無理やり感動を押し付けられるようなドキュメンタリーが苦手なのも、結局そういうところにあるのかもしれない。感情の起伏を他人に決められたくない。
子どもの頃以来、久しぶりに行く水族館は空間を閉じ込めたみたいに思えて特別綺麗だった。もし不変が美しさだとしたら。同じ形のままで外気に触れさせず保っていられたら。透明なトンネルを通れば、水面の影が君に落ちて、黒い髪が一層濃く見えた。
どうかな?このまま2人なにも考えずにしあわせに生きようよ。なんて言ったら君は変に笑って僕から離れると思う。どんどん君は、どんどん君は先に行ってしまう。小さく色が綺麗な見世物も数秒見たら終わり、次、次と歩く足が早い。まるで名前と形を認識する作業みたいだった。待ってと言えば、待ってくれるだろう。それでも僕は自分のペースで壁に入り組んだ水槽を見る。鱗が光の具合で色が変わったように見える小さいのが好きだ。
そうしていたら、一方通行の道に点々と置かれたクッション製の椅子で、足を伸ばして座る君がいた。
「お待たせ。この先は大きい水槽だね、喉乾いてない?」
「いや、大丈夫。」
「行こっか。」
「休まないの?」
「…まだ座ってたいの?」
僕を気遣うつもりはあった君がおかしくて、ついからかうように言ってしまう。君に従って左隣に座ると少し睨んで子どものように感情を伝えてきた。
「少し冷えるけど、広芽くん大丈夫?」
「ん?うん。気付かなかった。」
そうすると、僕の両手をバッと勢いよく掴んで指先を握った。君はつめたい、と言い、僕は手を握られたまま、手がぶらぶらと空中を泳いだ。しばらく続くので「何この時間。」と笑ったら、「広芽くんで遊ぶ時間。」と返ってくる。ようやく彼は手を離し、満足そうに息をついて伸びをしていた。
幼い記憶が残っているかだろうか、あまり写真は撮らなかったな。マグロの大群も迫力があったし、哺乳類のイルカやラッコも可愛いと思ったし、ライトアップされたたゆんたゆなクラゲも綺麗に見えたけど、写真は結局人が映ってないと見返さない。大人しく水槽を見る君を写真に捉えても後ろ姿で、横顔を撮ってもメインの水槽が映らない。それに空間全体が暗いからぼやける。写真は僕には難しい。
そうだな。最初の方にあったトンネルのところなら、すてきに撮れたかな。揺れる青い光が君を包んでいた。砂の上に寝る魚を見せるために、振り返って僕を呼んだ瞬間。一瞬を目に焼き付けた。そこだけは確かに写真に収めたかったかも。
お土産コーナーを物色し、小さいイルカとカラフルなビーズのネックレスを手に取り、頭をくぐらせた君が、そのままレジに向かった時はちょっと焦った。今日の白く広がるシャツのコーディネートとはちぐはぐで、機嫌の良い君はひときわ可愛かった。