2023年11月23日の日記

ngtr
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 朝、自分の部屋の窓の外を見たら、裏の森の木々が見事に橙色に紅葉していて、秋を視認したような気がした。私の部屋は、夏の間ずっと緑色の澄んだ光が射していて、木漏れ日や、木々の葉が作る影がゆらゆらと揺れていて、まるで水中のようで気に入っていたのだけど、今日からはじんわりとしたあたたかみのある橙色の光に包まれた部屋になった。家の裏が森なんて、そこかしこから虫が侵入してきそうで嫌だと思っていたけれど、これは素晴らしい楽しみだった。冬にはどうか雪がたくさん降って欲しいと思う。粉雪に塗れる木々と、雪灯りで白く染まる部屋が、いまから待ち遠しい。

 最近、息子がテレビというか動画を見れるようになったのでよくシナぷしゅを見ている。番組の中に、「ひらがなさんぽ」というコンテンツがある。

 ひらがながコロコロと転がっていき、意味のある単語になると、文字がアニメーションしてその単語の意味内容を伝える。とても良いというか、納得ができるコンテンツだと思った。私自身の文字や文章を読むときのイメージが、このアニメーションの感じに近い。多くの人がそうなんじゃないかと思っていたが、知人に文章を全く映像化せず、活字として読み込んでから頭に浮かべるというタイプの人がいたので驚いたことがある。なので一旦、主語は「私は」というていで以降を書く。

 私は文章を読むとき、文字や単語をそのまま頭の中で絵、または映像に変換しながら読んでいる。たとえば「青」という一文字を読んだら、ほぼ同時に大体 #0000cdくらいの青色がすでに脳内に浮かぶ。これが「青い空」だった場合はその3つの文字がまとめて映像化されるので、#87cefaくらいの水色とオーソドックスな白い雲の浮かんだ晴れ空を想像する。小説などを読むときは、こういう自動的な映像化作業をだいたい1〜2行の文章の塊でやる。ちなみに、文章を書く時はその逆順をやっている。

 だから、このひらがなさんぽが「文字」と「図像」をそのまま結びつけて表現していくのが、世界を理解する方法ってこうだよな、という個人的な実感を伴った納得につながっている。

 余談だが、私は咄嗟に右と左の区別がつかない、いわゆる「左右盲」である。それもこの「文字」と「図像」を結びつける認知の方法が影響しているように思う。私にとっては「右」と「左」は、明確な図像を当てはめることができない概念で、他のものと比べて理解しがたいというか、存在の解像度が低いのである。これが、「天」や「地」であれば空と地面の図像を想像することができるし、「東」「西」は、昔持っていた地球儀の塗り分けの影響で、東を太平洋の青、西はユーラシア大陸のピンク色、という感じでとりあえずイメージを当てはめることができている。

 だが右と左は個人的にはすごく厄介で、今見えている景色を右と左に当てはめても、反対側を向いてしまうと逆の色や景色が右と左に配置されてしまうので、いつまで経っても固定のイメージを固めることができないのだ。……本質的には、東と西もそうなのだが、方角は基本的に北が固定されている状態で示されることが多いのでそこまで混乱しない。しかも右と左はこうして横書きで「右と左」と書くと左右が逆転するし、漢字も両方とも右に重心があるかたちをしていたりして、もう頭の中がしっちゃかめっちゃかになってしまう。

 これまではうっかりで済んでいたのだが、最近は車の運転をしなくてはならないことになったので、この左右盲の矯正に苦戦している。なんというか、左と右ですごく突飛な色のイメージとかあればいいのになあと思う。ピーコックグリーンとショッキングピンクとか。あるいは文字の形自体が←→に近いかたちになるとか。まあ、ぐだぐだとわがままを言って、いざ公道を走りながら右往左往するわけにもいかないので、精進するほかない。……「右往左往」も、右が左にあるんだな。ツライ。