精神の底が焦げ付いてカラカラになり、どうしようもなくなる夜がある。そういう夜はとりわけ真っ暗で深く、ひたすら息苦しい。私が私で無ければ良かったのに。そういう呪いのような祈りのような澱が、喉元のあたりで燻りつづける。
ここでいう精神とは、前向きな気持ちを保つためのエネルギーや行動を起こすための活力、といったものだ。私はそれを、水を張ったフライパンをつねに火にかけているようなイメージをしている。余裕があるときはそこにまだたっぷりと水があって、何か面白いことをしようとか気になっていた小説を読もうとか、いい服を着て化粧をして新しいリップを塗って新宿まで買い物に出かけようとか、家族と楽しく外食でもしようとか、そういう明るくて楽しい行動を起こしたり、自分の人生を楽しく生きていく気力がたくさんある。多少、フライパンにあたる火の勢いが強くても、水がたくさんあるうちはまだ元気でいられる。
でも、仕事や生活が忙しくて寝不足だったりとか、対人関係のあれこれでダメージを受けたり、あるいは誰も何にも悪くない、ただただ私が自分自身で自分の内面を傷つけて勝手に自滅したりという、異常火力で炙られることが続いてしまうと、フライパンの中の水はどんどん干上がっていってしまう。そのくせ火の勢いばかりどんどん強まっていって、最終的にはカラカラになったフライパンが空焼きになって、黒い煙をあげはじめる。
こういう状態を、私は「精神の底が焦げつく」と呼んでいる。不幸な(?)ことに私のフライパンは多分人に比べてかなり小さく浅いのだと思う。さっきまでたくさん水が残っていたはずなのに、あっという間に干上がってしまったりする。きっと豊かに生きている人たちは、このフライパンが大きくて深いのだろう。
ここ数年だけでも、私は幾度となく精神の底を焦がしてきた。そのうちわりと本気の「死」が過ったのは数回だ。
ひとつは、仕事がほんとうに辛かったとき。そのときは、仕事相手の人に真っ赤に塗ってもらった車を、やっぱり金色に塗り直さねばならない、しかも明後日までに完璧に、みたいなことが度々発生していた。私が指定ミスをしていたり、未熟で伝え方が下手くそなことが原因なこともあるし、あるいはもう私の力ではどうしようもないことが理由だったりもした。そのどちらであれ私はそのたびに消耗していた。自分でめちゃくちゃなことを言っているのもわかっているし、めちゃくちゃなことを言っていると思われているのもわかっていて、だからこそものすごくしんどかった。自分に原因があるときはもうなおさら、恥ずかしいやら申し訳ないやら情けないやらで消えてしまいたかった(消えてしまいたい、という感情もまた我が身可愛さばかりで醜いのだけれど)。けれども仕事なので、いやあ申し訳ないんで赤のまんまでいいです、ともできないし、じゃあ私が塗りますともできなかった。苦しいなあと思いながら、どうにか金色にしてもらえるようお願いする。その繰り返しが、自分が悪いながらも、ほんとうに辛かった。
ある日ほんとうに辛くて、会社に行かねばならない時間なのにベッドの上から動けないという日があった。怠惰で寝坊をした日とは違う。朝シャワーを浴びて、服も着替えて化粧もしていたのに、ベッドに座ったまま動けなかった。賃貸の白い壁紙を睨んで、そのうちなぜか爪でがりがりと引っ掻いて、引っ掻いて、引っ掻き続けて、もう死にたいなと思った。いま私が死ねば、仕事相手の人も気持ちよく金色に塗れるんじゃないかとか、バカで自己愛に満ちたことを思ったりもした。結局始業時間ぎりぎりまで壁を引っ掻いて、1分前ぐらいに午前休を取りたいと上長に連絡を入れた。そのあとどうやってフライパンに水を戻したのかよく覚えていないけど、午後は会社に行ったと思う。車はどうにか金色にしてもらえ、その年も結局生き残った。
もうひとつは、数年前の年末だ。年の瀬はどうしてか、いつもだいたい気分が塞いでいる。年始が新しい日々に向かって「開いていく」のとは対照的に、大晦日に向かって一日、また一日と「閉じていく」のが年末だからだろうか。街も帰省で人が少なくなったり、休みで閉じる店も多く、なんだか暗くどんよりとした空気が漂っているような気もする。
その年は仕事でもたくさん疲労していたし、生活がどうにもうまく行っていなかった。精神的にピリピリと緊張していたり怒ったり泣いたりと感情が乱れる日々が続いていた。新しい年を目前に、しかし何日も何日も泣いてばかりで、カラカラになって煙をあげるフライパンを抱えながら、私ははたして来年まで生きるべきなのだろうかと考えた。もしかしたら年を越えない方がいいんじゃないか、片付けてしまうなら今年のうちなんじゃないか、という、何を大掃除しようとしてんねんみたいな、今思えばバカな考えが湧いて、いつまでも消えていかなかった。なまじ、12月31日と1月1日の間に明確な線があるせいで、それを越えるのを躊躇し、やるならば今しかない、みたいな強迫観念もあった。それで、急いで死ぬための方法を調べて、本も買った。AmazonのPrime翌日配送で。でも本を読んでいたらやっぱり難しそうだし怖いし、結局勇気がなくなって、本は箪笥の奥にしまい、結局12月31日を私は踏み越えてしまった。一旦その線を超えてしまうと、まあ別に今じゃなくてもいいやという気になってしまって、結局まあ、のうのうと私は今日も生きているわけだった。
今日はそういう、死まで過ぎるような底の底ではないけれど、でもそれなりに精神の底を焦がしてしまった日だった。私はとてもいまの自分が嫌いで、こんな人間になってしまったことをひたすら後悔している。私が私である以上、もうどうしようもないことがあまりにもたくさんあって、それなのにそれを諦めることができなくて、もっとこうだったら良かったのにな、とか思ってまた苦しくなったりしていた。結局自分を焦げ付かせているのは自分自身なわけで、それをどうにかしないと一生水を無くしてはまたどうにか張っての繰り返しになるのだけれど、これ以外の生き方をしらないので、どうすることもできない。せめて文章の練習をして気を紛らせようか、と思って、今夜はこの日記を書いている。
深夜3時、息子が泣いたので、終わる。結局、フライパンを大きくすることも、水をもっと蓄えておくことも苦手な私には、もしかしたらこうやって鬱々とした思考の渦を断ち切ってもらうことこそ、救いなのもしれない。