安全を守らない人間は死んだほうが良い

niaeashes
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「そんな考えは過激すぎるよ」という声が聞こえてきそうだけれど、私は心からそう思っている。安全を守らない人間は死んだほうが良い。ただ、この言葉をきちんと理解してもらうには多くの記述が必要になるだろう。そしてまた、私がこの言葉を真に伝えたい人々には、きっとこの記述では何一つとして伝えられないことも事実だろう。結末には実のところ、戦争しかない。しかしそれでも、現実的な落とし所をどこかに作り出すことができる可能性を夢見ることもまた、「安全を守る」ことだ。

危険を冒すことと安全を守らないことはイコールではないし、ルールを守ることと安全を守ることはイコールではない。危険を冒してもよいが安全は守るべきだし、ルールは破っても良いが安全は守るべきだ。

まず大前提として、世界は危険に満ちあふれている。人は歩けば死ぬし、今日生きているのは奇跡だ。しかし、そんな現実を直視していては心がすり減ってしまう。そのため、人は「ここは安全だ」と信じることで、仮に心の平穏を保っている。(本当はこれも嘘なのだけれど)

もしその場所が本当に安全ならば、それは無数の人々の営みの結実だ。危険性を直視し、「安全」という神秘のベールを引き剥がして現実を見て、そこを歩く人々が「安全」を信じていても差し支えないようにするため、「安全」を維持し続けている人々がいる。例えばそれを「自動車メーカーの義務だ」という人々もいるし、「警察の仕事だ」という人々もいる。確かに、そうして安全を守ることを義務付けるルールはたくさんある。そうした「安全を守ることを義務付けるルール」を作るために政治家がいて、そうしたルールを敷くこともまた政治家の義務ではあるだろう。しかしそれも、遡って考えるならば、やはり「安全を守らせることは社会に必要である」ことに誰かが気づき、そうしなければならない心理的力学が働くよう社会を作り上げてきた、あるいは変えてきたという証にほかならない。

「安全」の創出は明らかに社会の機能だ。そして、現実問題として「安全」は複雑な力関係の上に成り立っており、社会がもたらす「物事を安全にしよう」という力は、状況によって、場所によって、強くなったり弱くなったりする。

すべての人がすべての状況で「安全を強める」方向に振る舞えるわけではない。夜道を一人で歩きたいときもあれば、曲がり角で子供にぶつかる可能性を無視して急ぐこともある。好奇心からベランダの下を覗くこともあるし、そのとき落下して人の頭蓋骨を叩き割るリスクを考慮せずスマホで写真を撮影しようとする。無邪気に他人の背中を押したり、友人が座ろうとした椅子を引いた経験のある人も多いだろう。高速道路で160km/hを出すかもしれないし、居眠り運転をしたことがある人だって少なくないはずだ。あるいは、居眠り運転するかもしれなくても、どうしても車で出かけなければならいことがあるだろう。

私はこうした行為を糾弾することはできない。なぜなら、こうした経験があるからだ。例に上げたすべてではないが、私自身が「危険な行為をした」ことなど無数にある。つまり私は死んだほうが良い人間だ。このことに疑いはない。この考えに沿うなら生きていたほうが良い人間などいないだろう。しかし、安全は人のためにあるのであって、人が安全のためにあるのではないから、やはり安全を守らない人間であれ、安全を守らないという理由で死ぬべきではない。

しかし一方で、「安全を守らない」という行いそのものは常に糾弾されるべきだし、あらゆる意味で許されるべきではない。私達は「安全」などこの世に実在しないことを知っているし、仮初の「安全」が砂上の楼閣であることを知っているし、実在しない「安全」を守ろうとするあらゆる努力が無価値に終わることを知っているからこそ、「安全を守る」ことを続けなければならない。

限りなく安全である特殊な空間を作る、そのために行われるすべての努力に、敬意を払わなければならない。その敬意は、自分もまた「安全を守る」ことによってのみ払われる。

安全は莫大なコストによって守られる。その莫大なコストは、社会に参加する全員がわずかずつ負担して維持されるものであり、どこか一つの個人やグループが維持することができる種類のものではない。例えば「警察に必要な通報を行う」ことも、「警察に不要な通報を行わない」ことも、安全を守ることに資する。ならば「警察に通報すべき事案とそうでない事案を見極めるための知識をつける」ことも、「安全を守る」ことに資するだろう。自分自身が犯罪に遭わないよう行動することも、自分の身に起こる危険を回避するだけでなく、自分が犯罪被害者になって警察機関のリソースを消費することを防ぐ意義さえある。言うまでもないが、実際に犯罪被害に遭った場合、速やかに通報をすることで警察に犯罪情報を伝えることもまた、「安全を守る」ことだ。

安全はお金を払っても手に入らない。どれだけ莫大な予算を警察組織に割いたとしても、一定の地域に常駐できる警察官の物理的人数には上限がある。莫大な予算で莫大な人数の警察官を作り出しても、それは突き詰めると「安全を維持できるキャパシティを増やす」だけで、絶対的な安全を作り出すことができるということを意味しない。安全は金で買えない。あらゆる種類の「金で買えるように見える安全」は、突き詰めると「金を払えば安全な場所に身を置くことができる」程度の意味でしかないことに気づくだろう。

安全など、危険な人間が一人いれば崩壊する程度のものでしかない。クラスに制御不可能な暴力生徒が一人いれば勉強はできない。分譲マンションの価値が脅迫さえ辞さないような危険な理事によって暴落する事例もある。パワハラ上司一人で仕事は成り立たなくなる。悪ふざけで椅子を引かれて、大きな障害を負った高校生もいる。教師が遅刻生徒を取り締まるために校門を勢いよく閉めて、生徒を挟み殺したこともある。回転扉は小学生男子を挟み殺したし、過積載の液化プロピレンは爆発するし、小学校の天窓は割れる。

だから安全を守らない人間は、死んだほうが良い。死んだほうが良い私達一人一人が、嘘でも安全を守ろうとしなければ、そこに安全など存在しえないことを了解し、「私がその嘘を守らなければならない」のだと信じなければ、本当に人が死ぬのだから。

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言及していない問題はいくつもある。

「安全を守ると経済的に人が死ぬ場合、その人は死ぬべきなのか?」→ これについては概ね死ぬべき(より正確に言うなら、その事業からは撤退して別の方法で収益を上げるべき)という結論が支持されていると思う。私個人も基本的には同意見だが、「安全のため経済的に死ぬべきことになった人々は、いわゆる無敵の人なので安全を守るインセンティブがなくなる」という問題は未解決であるように思う。また、「安全のために廃業を選択した経営者が評価されないどころか、従業員にはおそらく恨まれる」という問題もある。

「危険な行いのない発展はないのではないか」→ これは事実ではあるが、突き詰めると「社会が求める安全の程度を理解できていないのなら危険な行いをしてはならない」というあたりでバランスを取るべきだ。あらゆる危険な実験は、安全対策を適切に施したうえで行われている。

「死者が出てから規制するので、全体論としては十分ではないか?」→ 昭和の価値観を脱すべきだと思う。父親を迎えに行った小学生男子がくだらない回転扉に潰し殺されたり、飲酒運転トラックに3歳と1歳の姉妹が焼き殺されたり、危険な状態で出港した遊覧船が沈没して3歳児を含む26人が全員死亡してから「安全を守るべきだった」と叫ぶのは、本当に終わっている。

「安全を守ることを重視しすぎて何もかも不便になるのは本末転倒だ」→ 人は安全を維持しながら世界を拡張し現実を改変してきた。航空機を見ろ。技術と人々の努力によって安全な空の移動が実現している。……航空機がこの世に誕生した瞬間から安全を完全に守っていたら、おそらく今日の航空産業は成り立っていないという点は大きな課題だけれど。