水戸の浪士、関鉄之助について調べている。
浪士っていうと、物騒なのだがれっきとした藩士だった。桜田門外ノ変の実行役のリーダー格となった人物。
この関は、最後は捕縛されて小塚原の刑場にさらされたわけだが、捕縛された地は新潟県関川村なのだ。
その話はおいといて、なぜ新潟かというと、いろいろある。関は水戸の斉昭公により蝦夷地の開拓を命ぜられた。
水戸が300両を出資した蝦夷地の案内人に水原の喜三郎というのが登場する。水原は…語ると長くなるが、江戸時代は天領で代官が置かれていたが、全国屈指の富裕な天領だったらしい。まぁ、そりゃそうだ。福島潟の干拓により莫大な富を生んでいたのだから。
喜三郎は印旛沼干拓にも携わっていたというから、相当な山師だったと推測される。新たに目をつけたのが、蝦夷地との貿易。
そこで出自までは調べている途中なのだが、喜三郎はいろいろあって、藤野と改称。
屋号も高田屋と三國屋金四郎と名乗り、阿賀野川の改修にも携わる。
三國屋…みくにや??齋藤喜十郎の齋藤家と何か関係がありそうな雰囲気
桜田門外ノ変の首謀者として追われた関は、水原の喜三郎を頼る。
しかし、そこは幕府領。追手は迫り、水原から関川へ。かねてより病気に悩まされており、その湯治もかねて旅館に滞在していたところに踏み込まれたという。
関川村にある鉄之助受難の石碑