ありのままの自分を受け入れて欲しいってなにさ

あやき
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公開:2023/12/3

題名の話に進みたい人は次の題まで飛ばすべし

いまは昔、まだ世の中がガラケー全盛期だった頃。テンプレートを漁りHTMLを駆使して文字を大文字にしたり右寄せにしたりしながら、自分だけの城を作っていろんなものをアウトプットしていた。

時代が移り変わり、めんどくさい下準備なんてしなくても思ったことをパッと呟けるようなSNSが現れたけど、便利さが向上した反面途端に自分で物事をアウトプットするのがめんどくさい時代になった。

これは、自分が何も言わなくても誰かが同じことを考えてるのがすぐわかるようになったためでもあるし、下手なことを言って絡まれたくないというめんどくささのためでもある。学生の頃のように通信量や時間の縛りがなくなると同時に、ネットの文章の大切さや込める思いの丈が減っていったような気さえする。

前書きが長くなったが、そんなわけで懐古的な気持ちになった私はこうして自分の考えをそれなりの長文で、誰に読まれてるかわからない(誰にも読まれていないかも)という場に放り出すことにした。と、かっこいい風なことを言ってみたが言いたかっただけで、単に文章力が消失する前に何かブログ的ないつも内面でうだうだ考えているものを発散する場を作りたくなったというだけだ。

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これは以前聞いたポットキャスト(自分らしさの「らしさ」とは人間関係の中で生まれるものだという話)に影響を受けて育った思考だけれど、最近「ありのままの自分を受け入れて欲しい。」みたいな思考の流行を感じることがある。

聞いたポットキャストはこれ。

https://podcasts.apple.com/jp/podcast/%E8%8B%A5%E6%96%B0%E9%9B%84%E7%B4%94%E3%81%AE-%E3%81%82%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%84%E7%B5%8C%E5%96%B6/id1510354859?i=1000629577236

でも、「ある程度飾らない他人のことを受け入れられる」人ほど「ありのままの自分を受け入れて欲しい」とは言わないのではないかと思う。なぜかというと、できている人は「受け入れられる」のと「好感を持たれる」のは別問題だと知っているからだ。

何が言いたいかというと、「ありのままの自分を受け入れて欲しい」という人は、自分の考えを受け入れて欲しいといっているわけではなく、「どんな自分も愛して欲しい。」つまり「私は何かに合わせる気はないけど好きでいてくれ。」みたいなことが本当に言いたいのであって、「ありのままの自分を受け入れる」の「受け入れる」が、「存在を認める」「考えを認める」の範囲にはとどまらない……もっと細かくいうと「認める」が「相手の考えに理解、同意を示すこと」だと思っているのではないか。「ある。と認めること」ではなく、「存在していると無感情で認識することでもなく」。

でも大体人間にはそれぞれ好き嫌いがあるのだから、「存在を認める」「そこにあることを受け入れる」にプラスアルファ「好意を持たれる」というのはそこそこな幸運がないと無の状態からは難しいのではないだろうか。だからこそ人は身だしなみに気をつけたり、話す際に相手に伝わるように心がけたりするわけだし。

ただ、本当にこのエントリーで言いたかった話はそういう話じゃない。いや、結局結論的には「甘えたことを言ってもできないこともあるよ」に落ち着くんだけど、このエントリーで言いたかったのは、「自分を(社会的に)認める」という行為は他人にしかできない以上、「他人が認識できる範囲の表現で物事を伝えなければならず、そういった過程を踏む以上、ありのままではいられない」という話だ。

「ありのまま」がうまく言語化できる場合もあれば、できない場合もあるだろう。ここからはできない場合にかぎっていうが、言語化できないモヤモヤとしたものは、断片的に言語化するか、形をジェスチャーで表現するか、音や振動で表現するか、表情でアピールするか……というのがメジャーな伝達手段だと思う。時と場合によっては空気や湿度、風なんかを媒体にすることもあるかもしれないけど。(とてつもなく帰って欲しい客がいる時に冷房をつよくするとか?)

受け取る側はそう言った断片的な情報から自分の今までの経験、知識、知恵で情報を判別して判断するしかない。例えばだけど、地球で「笑顔」だと思っている表情が「激怒」の表情である宇宙人にであったとして、我々が初見でそれに気づけるだろうか。何人か激怒の末に害をなされてからじゃないと法則に気がつけないんじゃないだろうか。

まぁつまりそういうことで、ある程度の共有された前提知識と個人の見解をもとに、大体の物事は相手に伝わっていると考えられる。

テレパシーだって、本当にそっくりそのままモヤモヤとした形にできないものが感覚的に伝わったって、それが自分のなかで経験したことのないモヤモヤだったら処理できなくて、なんか雰囲気はわかるけど意味わからん。みたいな感じになってしまうんじゃないか?

なので、言語化できない「ありのまま」は自分を離れた瞬間に消えるのだから、潔く幻想は捨てて、より自分の意見や意思を相手に伝わるように手を尽くし、かつ好感を持ってもらう方が何倍も満足度が高いのではないかと思ったわけだ。これは別により詳細に言語化しろという話じゃない。見た目、印象、話し方、そういう言語化ではないものでアプローチする手段もあるからね。

ちなみに、世の中には断固として自分の気に食わない話は存在を認めない人も確かにいるのでそういう人へのアプローチは非常に疲れるだろうというのも理解はしている。んだけど、そろそろ疲れてきたので一回締めたい。

人が社会の中に溶け込む時、どうしても他人の認知に合わせる必要があり、それが自認と異なることを責める必要はない。むしろ相手に伝わるように情報量を制御できる人はコミュニケーションが上手だ。

ありのままの自分を受け入れて欲しい。その上で本当に目指すものはなんなのか、何をしてもらえれば満足できるのだろうか。まずはそこを想像して、受け入れてもらえる方法を考えるのも時には必要なのかもしれない。

そんなこと考えたくない!ありのままでいたい!めんどくさい!人に合わせたくない!と思う時は多分疲れてるから、むしろ人と関わらない方がいいよ。

終わり

@nike221b
ここに書かれているすべてのことは、とくに正論ではない