価値観を切り捨てること

てんすい
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■「自分は欠けているのではないか」という一文を何かで見た。たしか今読んでる小説?

この感覚はなんだか身に覚えがある。私は昔、女の子向けと呼ばれるものを楽しめなかった。おままごとやおジャ魔女どれみやプリキュアは興味が無かった。ピンク色のものやハート柄のものは自分には似合わないと思っていた。兄への憧れから、スカートよりもズボンを好んで履いた。

そして現在。今でもおままごとの勝手は分からないし、ピンク色の服も着ない。けど、当時の反動のようにハート柄のものを持つし、ハートの絵文字も使えるようになった。長いスカートは履くけど、短いのは履かない。

それぞれに折り合いをつけてここまで来た。こうなれたのは、自分を受け入れてきたからと言うよりは『いくつかの価値観を切り捨ててきたから』の方が正確だと思う。

「女の子なんだから」「女の人ってこういうの好きなものでしょ」「女の子用」こういう言葉にいちいち反応して、そこに入れないことにちゃんと傷ついて、マジレスして、友達や親友とたくさん話して、お互いと自分を鼓舞した。その中で、自分が縛られてしまうと感じた価値観をたくさん切り捨ててきた。

「女性」に関する価値観だけじゃない。他にもたくさん切り捨てた。「選び取った」という言葉を選ばなかったのは、かつて正しいと思い込んでいた価値観を手放すには振り切るような勢いが必要だったから。価値観は、握りしめていた手を開くだけでは離れていかなかった。社会に蔓延するだけにとどまらず、既に私の一部になっていた価値観を見つけて、文字通り体から切り取って、振り切って捨てる。そんな意識でした行為だから「切り捨てる」という言葉を選んだ。

その価値観 知っているよ。でも私は同意しない。信条にもしない。っていうのが今のスタンス。

切り捨てる行為が正しかったのか分からない。自分で殻の中に閉じこもったとも言える。全てが正解の、私にとってのみ都合の良い世界に閉じこもった。私は自分の居心地の良い価値観だけを自分に残した。それはXのフォローを整理して、タイムラインが自分のユートピアになるようにカスタムしていく作業に似ている。それが良かったのかはまだ分からない。いずれ分かる時が来るのかな。怖いな〜。

「女の子向けのものを楽しめない私」を欠けているとするなら、私は未だに欠けている。私の全部は変わらなかったから、呼吸がしやすくなるような価値観を選んだ。欠けている部分に「別にそれで良くない?」と言ってくれる価値観を。

そして「女の子」「女性」とは少し違う私を作った。女の子が完全な円なら私は歪な多角形だと思う。私が選び取った、誇り高く愛しい多角形。その形が個性で、違いで、面白さのはず。

■また、今まで物事を“正しい / 悪い”というものさしで測った時、どちらかだと断言できたことは少なかったような気がする。職場のババアを悪人だと断じたときだって、確かに私の独自の価値観(ババアを悪人にしたいという気持ち)が乗っかっていた。正しい / 悪いで測れるものは、もしかしたら私が思うよりも遥かに少ないのかもしれない。

@nimius
「かく在るべし」に押されて「こう在るのがいいんだろうな」と在ろうとするのではなく、「わたし」で在るための訓練をする場所にします。恥ずかしくても、間違ってても、私の「本当」をここに残します。 Xアカウント:@krgm_krgm