■この言葉、確かにそれはそうなんだけど、端的すぎだし端折りすぎだなと思ってる。解釈の余地があるし、自分の考えを詰め込む隙もありすぎる。受け取り手によってどうとでも解釈できるから、結論と言うにはずるいなと思う。
私に隙を見せたら最後、詰め込まれると思え。ということで詰め込んでいくよ。
私に言わせれば、今があるのは私が「あの時」を意味のあるものにしたからだよ。
私は得たものを自分の糧にする姿勢に憧れがあった。私にとって『憧れ』という感情はものすごいエネルギーを持っていて、傷と共に思いがけず手の中に何かが残ってしまった時ですら、その姿勢を突き通させた。
苦しみの中で得ていたものは、良しとも悪しとも分からなくても手の中で何度も何度もこね回して、泣きながら食べて自分の一部にした。これが私流の「糧にする」行為。食べた後は“経験した人間特有の先輩風”を吹かせながら人に得意気に語ったり(これは思い出したくない。聞いてくれたみんなに謝りたい)、それを猛省したり、もう一度考えたり、途中でまた人に話してみたり、感情に向き合うことで育てていった。
こうやって苦労を意味のあるものにした。
その中には、『救いようがない出来事だから、得たものに意味を見出すことでしか救いがなかった』とか、『得ることで傷ついて泣いているのに「いま知っておけば今後傷つかないもんね」と言いながら食べた』こともたくさんあった。だから全ての苦労を許しているわけでは、もちろんない。苦労に感謝なんて口が裂けても言わない。感謝するのは自分と支えてくれた周りだけ。
「あの時があったから今がある」ってのは間違ってない。だけど、私がこの言葉を言う時には余白にこれだけの思いが詰め込まれてる。
■苦労をせずとも、もっと時間をかけて穏便に手に入れられるのなら迷わずそっちを選ぶ。でも手に入れたものを見なかったことにすることもできず、捨てることもできず、食べられるようになるまで時には数年間ずっとこねてた。これは今でもやっている。まだ食べられていないものを、今も手の中でこね回している。
■こんなことやるのに根底にあるのは『憧れ』だけかよって思うことは、ある。好んで勝手に苦労してるだけにも見える。でも、止めたくても止められないんだよなぁ。性分なんだと思う。やりたくてやってるとは違う。
■良いものも悪いものも、得られるものを全部得ようとするとき、私はいつも「食い尽くしてやる」と思っている。
■タイトルは本文から引用するタイプ。
■ここで書き続けたおかげで自分の書いた文章を読み返すのが苦じゃなくなった。苦じゃないような文章を書くようになったから。前は読み返すのが本当に嫌だった。
それに、最初に書いた文章に固執しなくなった。もうガンガン削除して書き直しをしてる。
■今日は感情が昂っていましたね。これはある意味ガチ文です。