「細かすぎる」は / 後輩と社交辞令 / 会話で定石を踏むこと

てんすい
·

2024年2月4日(日)

■よく毎日こんなに書くことがあるな…と自分でも思う。

■休職前の職場での出来事で「私は細かすぎる(かも)な」というマイナスな意識を得てしまったんだけど、これ、自分の気持ちを正確に書くことにおいてはプラスなのでは?書くからには正確に残しておきたいんだよね。そう思ったら、これは強みでは!?うおおお!

■でも、違うか。逆だ。仕事を正確にやりたくて、だから細かくなっちゃったんだ。細かすぎる私がダメなわけじゃない。

ム、「正確にやりたい自分」と「細かい自分」と「ダメかもしれない自分」の位置関係が難しくなったな。

■昨日書いた幼馴染の話に出てきた後輩に、あの時はありがとうとメッセージを送ろうかと思って文章を作った。

だけど、もう何年も連絡を取っているわけでもない後輩に送るのは勇気が要る。だから文章を送ったら、返事が来ても1ラリーくらいでやり取りを終わらせようと思ってる。いわゆる言い逃げ。

…でもそれって身勝手だよね。それに私はこういう、「何年前の出来事であろうと、急に感謝のメッセージを送る」ってことを良しとするけど後輩はどうだろう。押しつけになるかもな。それになにより急にメッセージが来たら怖いよね、きっと。と思ったら、送信はできなかった。

日を跨いでもう一度考えてみて、思い直して送信した。送るに至った理由はふたつある。

ひとつは、後輩と繋がっているインスタのアカウントはそのうち消そうとずっと思っているもので、「これ消したら多分もう連絡は取れないだろうな」と思ったから。言えるうちに言っておこうと思った。アカウントを消したらそれが今生の別れになるかもしれないし。(またどうにか繋がろうと思えば繋がれるのかもしれないけど。)

もうひとつは、「刻印入りの指輪を作ったら自分の指に合う指輪があるのが嬉しくて製作者さんに感謝のメールを送った」って話を友達にしたとき、「あんたのそういう所あらゆる人間を救っていると思うわ」って言ってくれたことがあって、その言葉に背中を押されたから。プラスな気持ちを相手に伝えられるなら私は言う。それが一般的にあまり行われないことだとしても。

送った後はもう関わることはないだろうからどう思われてもいい(というかしょうがない)し、どうなっても最後はアカウントを消していなくなっちゃえばいい。「急にメッセージが来たら怖いよね」については、「急にごめんね」という一文を付け加えることでクリアとした。そうして、えいやと『送信』をタップした。

するとなんと。後輩から「思い出してもらえて嬉しいです!」「先輩は今どこにいるんですか?(件の)幼馴染さんもこっちにいますし今度は一緒に飲みましょう!」という返事が来た。

一番嬉しい形の返事だ!実際に飲みに行くかどうかと幼馴染の名前が出たことは置いといて、返事としては一番嬉しい。嫌がられたり、読まれなかったり、そういうのじゃない。相手も嬉しいですと言ってくれているし、喜んでくれたなら、言って良かったなあ。

そこまで考えて思い出した。『社交辞令』という言葉を。

後輩も立派な社会人だ。もしかしたらこれは私の知らない社会人の社交辞令の常套句で、

「あの時は嬉しかったよ、ありがとう!急にごめんね」

「嬉しいです!今度は一緒に飲みに行きましょう!」

「いいね!」(そして永遠に開かれない飲み会の約束だけが残る…)

という流れに、私はもう乗っているのかもしれない。

そうして、切ない思いをしたくない私は「これは社交辞令の可能性もある」と思い直した。後輩が本気で飲みに行きたいなと思ってくれているなら、これ以上失礼な話はないんだけど…。

社交辞令って、言われて喜んだ方からしたら少し悲しいよね。私は社交辞令を言うくらいなら黙る人間になろうかな…。なれるのかな…。

■昨日、件の幼馴染と昔一緒にビリヤードをしたことを書いたけど、どこでやったかが全く思い出せなくて「あれはどこでやったんだっけ?」とメッセージを送った。○○じゃない?って返事が来て、「そうだそうだ、ありがとうスッキリした」と返したら、「△△(中学時代の共通の友達)が会いたがってたよ」と言われた。

実は私は、自分の話を自分がいないところでされるのに軽いトラウマみたいなものがある。

「○○ちゃん、高校は××に行くんだって」みたいな、思春期の自分にとってはあまり人に言いたくないことを勝手に他人に言われるのが嫌だった、ってのから始まってるんだと思うんだけど、教えてないはずの人から教えてないはずの私の情報が出てくるのが本当に嫌だった。だから噂が苦手で、人の話もなるべく本人から聞きたかった。これは今でも変わらない。

なので、幼馴染がいつ私の話をしたのか分からないけど、私の話を△△さんにしたという事実が嫌だったし、それを私に伝えてきた意味も理解できなかった。ここで「私も会いたいなあ」みたいなことを言うのが会話の定石なのかなぁと思いつつ、「そうなん?へえ〜😮 」と返した。嘘はつけなかった。特に今は自分の体が第一だから。そしたら、「仲良くなかったっけ?」と返ってきた。幼馴染は良かれと思ってこの話をして、その上で「私も会いたいなあ」が来ると思っていたのかな。

■私は会話で定石を踏むことを良しとは思わない。そういうモットーみたいなものがある。だからって定石を全く踏まないわけじゃないけど、交友関係においては定石より個人が思う細かなことを話す方が断然面白いと思う。でも、「いちいち引っかかるなあ」「合わせるとか流すとかしておけばいいのに」と思う人はいるかもしれない。

そういうのを考えるのが嫌で交友関係を狭めたんだっけ、ということを思い出した。

■この軽いトラウマの話と定石の話はいつも説明するのが難しい。

■最近人と話すといつも「一石を投じる」という言葉を思い出す。私が問題提起をしているという話じゃなく、言葉を投げかけたら返事が来る。それを波紋だと思う。投げかけられてもまた然り。

返事をくれるのもありがたいなぁと思う。

■BUMP OF CHICKENの「ゼロ」って曲が好き。知ったのはFF零式がきっかけ。

最初に聴いた時から『あの日のように笑えなくていい だって ずっと その体で生きてきたんでしょう』って歌詞がずっと好きだった。今までは「人に対して思う感情」として聴いていたんだけど、今日は「自分に対して思う感情だ」と思って泣いた。元気になれなかったとしても、今のままでもいいか、と思った。

@nimius
「かく在るべし」に押されて「こう在るのがいいんだろうな」と在ろうとするのではなく、「わたし」で在るための訓練をする場所にします。恥ずかしくても、間違ってても、私の「本当」をここに残します。 Xアカウント:@krgm_krgm