昨日、久しぶりに外出らしい外出をした。年末年始は調剤薬局と少しだけ買い足しに寄ったスーパー、仕事場と駅、どれも行ったがそそくさと急ぎ足で帰った。景色や余計な店を見る余裕もない。頭の中は常に家にあった。子供が風邪をひいた親というのは皆そうなってしまうものだろうと思う。そういうわけで久しぶりに外出の実感を得た先は、本屋だった。配偶者が子供と本を見ている間に私はひとり数十分もらい、さっ、さっ、となるべく思い切りよく選びとる。それでなかなかいい選書、と帰ってぱらぱら下読みみたいなことをしてうれしくなる。間違った読書というのはないと思うが、気持ちの上ではずれはある。今回は立ち読みで得た直感が当たり、たぶんこの年の私の指針のひとつになる本だろうと思うのがあった。創作についての指南書だったが、それ以前の(創作に必要不可欠な)孤独について、腑に落ちることがたくさん書いてあるように思う。それは、私にとって、須賀敦子への旅だ。
2023年はなかなか本の読めない年だった。読みなれた本を、いつ中断させられてもいいようにぼんやりと開くとか、お気に入りの作家の新刊だけはせめて、と読むくらい。たしかに、もとある本を読み返すのはいいことだ。文庫化に影響されてディーリア・オーエンズの『ザリガニの鳴くところ』を読み返したのなんかとても良い体験だった。しかし新しい本はいくつ読めたろう、とも考えてしまう。わずかだと思う。それから文章も、いくらも書けなかった。日記すらあやしいものであった。書く暇もない。実際の時間がないというより、それだけの余分な思考ができなかった。選択の余暇がない。でも仕方がない。2023年は、あたらしい生活に順応し、そこで生まれたあたらしい私を形成していくことに注力した年だった。あたらしい私はどうも自分の趣味や夢や目標より、他者や世間の求める像になることを優先させるきらいがあるようだ。この土地や人間関係に馴染む像を感じ取り、自分の中にそれに沿う人格を家屋の外壁みたいに作り上げた。現実的に引越しや転職があった。そうやって比喩的にも実際的にも生活基盤をあたらしくたてなおしていた私は、巣作り中の気の立った親鳥みたいだった。安全な場所、というのは安全な人間関係、そのための社会的な性格の構築も含まれるのだな、と思う。それと、あたらしい私は子供の教育というものに執心しやすいようだから、そこは時々たしなめてやらなければならない。自分のことと彼のこと、ときどき、バランスが悪い。だからこう言い聞かせる。彼の人生、いいことも悪いこともすべて彼が味わうべきもの。あたらしい私は私の人生の路線上でそれを味わうべきであって、歩む路を間違えてはいけない。また、あたらしい私はあたらしい友人を得た。しかしその距離感に戸惑ったりもしている。自分と他者の境界について意識しなければならない。社会と、家族と、友人と、さまざまな関係性の中で私はさまざまなかたちの外壁を構築している。建てて、壊して、また建て直す。低すぎても危険で、高すぎても危険。測るのは、安全な距離。
自分と他者の境界について。この1年たびたび考えたテーマになった。自分がこの構築を意識するだけ、これが曖昧な人間が多いのじゃないかと思わされる年だった。夫婦も親子も友人知人もみんな他人。家族や友達のパーソナルスペースを侵してはいけない。距離感。それを正しく見極めたい。