1月10日

nina
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休日。出かける前に1時間くらいソファで寝る。すっきりとは晴れない気持ち。寝不足、あるいは暇がもたらす悪い癖かもしれない。あとは現実的な不安。大したことじゃないのに口に出さず、決めることも出来ず落ち込む。美しくなりたいと望んだ途端に他者の目が怖い。子供たちの視線が、老人たちの舌打ちが怖い。のっぴきならない用事のためにおおきな駅まで出てきたものの、いつもは通り過ぎるだけで楽しいショッピングモールも怖くてまともに歩けない。そこにいるすべてが、店員、陳列の品、買い物客が自分より遥か高等な存在に思えて情けない気持ち。みじめ。顔や体型、預金残高やクレジットカードの支払い、仕事のできなさ、給与の低さ、人望のなさ、全てが己の怠慢のせい。他人の目が怖い。そんな時に「誰もあなたのことなんか見てないし、考えていない」という励ましも「自意識過剰」という一刀両断の正論も、どちらも私を救わない。

昨日、トイレに新しいルームフレグランスを置いた。ネロリ。そこでふと、明日が来ることに言葉に出来ないような幸せを感じた。幸せというと大げさ。しんみりと、嬉しい気持ちになった。そうか、前進しても、しなくても、変わらず明日は来るのか。明日も明後日も来て、やり直したり、進んだりするチャンスが生きてる限りずっとあるのか。明日がある、使い古された名曲のワンフレーズは、普遍だから愛され、今もまた愛される。

簡単に絶望したり、希望を持ったりする。そんなのでは、現実に役割(母/妻/社会人)をこなせない。だけど、そういう自分をころしてしまうわけにはいかない。逃げても逃げてもそこにあるものを知ることを「自分探し」というのでしょう? 自分って、欲しいものじゃない。持っていると辛いのに、捨てられないもの。そういう「私」を持ちながら役割をまっとうするために、私は書いている。書かないといけない。書いていないとうまく呼吸もできない。

ショッピングモールのベンチによろよろと座って、酸素吸入器をあてるようにスマホを出して日記を開き、ぜいぜい、なんとか息をするみたいに、書いている。

@nina
日々と小説