最近気づいた自分のこと。
花は、木に咲く花が好きだということ。花瓶に凝っていた時期に、切花を買う機会がしばしばあった。もちろん花がある生活は心和むものであったが、次第に枯れていく姿に、日々、この花も花弁が落ちた、この花はもう捨てなければ、と思うことが寂しく思われた。
私の母は、チューリップが嫌いだ。それは、花びらが開く前に摘み取られた姿を愛でられ、花開いた時には姿を可愛いと思えないからだそうだ。なんだか、花について考えることがあると、よくこの話を思い出す。
花にこころはなく、憂も喜びも、私が花と過ごすうちに思うことだ。だからその姿にマイナスな気持ちを抱くだけ、不毛だと、わかっている。
その点、木に咲く花は、いずれまた、私の前で同じ花を咲かせる。花のない季節にも、そばにいることができる。触れ合う花として、付き合いやすいのだと思う。
私の祖父は、いくつかの学校で校長を務めたあとで、そのうちのひとつの学校に藤を植え、育て、整えた。その藤は、きっとこの春も花を咲かせる。とうに祖父がいない春だろうと、咲くのだ。
変わらぬ愛に、また会える、と期待できることは、幸せなことだと思う。ひとは、ひととの繋がりの中にこそ生きてゆけるのだから。その繋がりが確たる形で存在してくれる、木に咲く花々に感謝したい。
相変わらず春の嫌いなわたしにとって、どこかで咲く藤も、いつかのわたしを照らした桜たちも、まだ見ぬ花々も、ゆるやかに前へ進むための救いなのだ。