GWを勤労に回した。タスクを詰め込むと、それはもう何度も予定を確認して、次はこれをして、こう動いて、何時までにこうして…と頭で繰り返す。数日スパンのものもあれば、1日の隙間時間の使い方でもこれをやる。
わたしが大多数の人と違うことをしてみるのは、今回の連休だけではない。いつからか、人と同じ、を疑い、それ以外の選択肢を探すようになった。枠組みを疑うことは、固定概念として意識の水面下にあったものを浮かび上がらせることで、この思考の癖付けは大変私を成長させたと感じている。
思い込みを指摘する話でよく出てくるのが、ある医師の話だ。「とある病院に、お父さんと息子が交通事故に遭い緊急搬送されてきて、それを見た外科医は「この子は私の息子です」と青ざめて言った。どうしてか?」みたいな。これは、単にその外科医はその子供の母親であり、医者といえば男であろう、という考えを指摘するための問題だ。
わたしは今、どれだけのしがらみや、凝り固まっている考えを断ち切れたのだろう。偏見や、無知は、どうしたって罪としてあらわれる場面があり、わたしはその罪人に、自分がなるケースを一度でも減らすために生きている。
ただ、人と違う、は、わたしが何を思うわけでなくても、わたしは少しずつストレスに感じている。整体に詳しい人に言わせれば、今わたしの副交感神経はガビガビらしく、これで何かの弾みに交感神経までやられてしまうと、心が落ちてしまうと言う。
わたしは、何でもかんでも、意見をなくして枠にはまろうとは思わない。レジスタンスとして存在したいものには、その立場を示したい。それでも、社会では足並みを揃え、生きていくことで強みとなる時もある。そのどちらも、どちらもわたしのしたい通りにできるように、熟れた桃を指で突いてしまうような、そういう痛みを感じていても、今は力に変わることを信じて、乗りこなしていけるように、生きていたい。