ぜったいに妊娠や出産をしたくないからといって性自認が女性じゃないということにはならないし、性自認が女性じゃないからその先もぜったいに妊娠や出産をしたいと思うことがないというわけじゃないと思う。けどわたしは女性でも男性でもなくてこれまでもこれからもじぶんの肉体で妊娠や出産をしたくない。わたしは子宮を取りたくて、性自認が女性じゃないから子宮を取れることになった。病院に行くときは「性自認が女性じゃない『から』この先もじぶんの子どもがほしいと思う日は来ない」という単純化された暗黙の形にそった態度でいないといけない。ほんとは正しくないけど、そういうことにしておかないと死ぬまでわたしのなかに子宮を置いておかないといけなくなる。でもノンバイナリーやトランスジェンダーだからといってじぶんが産まれもった生殖器を使って子どもをもうけたいと思わない(それができるならシスジェンダーだろう)ってことはぜったいにない(性行為も然り)。
ノンバイナリーであるとはこうである、と定義づけることができないように、女性であるとは、男性であるとは、ほんとはひとりひとり違うことなんだと思う。というか、◯◯というジェンダーである、っていったいどういう状態なんだろう。わたしはノンバイナリーということばがいちばんしっくりくるからそう名乗るときもあるけど、それがあってるのかはよくわからない。「女性でも男性でもない」「性別がない」といいたい。
18歳くらいまでまともな自我がなくて(家庭でも学校でも塾でも子どもを支配したがる大人たちに囲まれて育ったから?)じぶんが何者なのかをじぶんで考えたことなんてなかった。18歳で地元を離れて女子大を満喫して(ほんとうにたのしかった)、就職してから周囲からなにか期待されているふるまいがあるらしいけどそれと合わないな、と感じだした。じぶんのジェンダーについて考えたことなんてなかったけど、20代前半はずっとなにかちがう気がする……と悶々と思っていた(素敵な装いはだいすきだからかわいい服やきれいな靴をいっぱい身につけてたし、周囲からはどこからどう見ても女性らしい女性を自認していそうな人間に見えただろう。装いのジェンダーと性自認ってイコールじゃないけどね)。トランスジェンダーということばこのときには知ってたけど、トランスジェンダー=体の性と心の性が逆というイメージだったし、女性と思わない、かといって「逆の性別」でもない、という状態をどういえばいいのかわからなかったから、とりあえず男性とは思わないから女性だということにしてた。20代後半に差し掛かったころに住む場所をかえて、「女性のからだだから周囲から期待されているように女性みたいなことをやる」ことをだんだんしなくなった。そうするうちにじぶんが解放されていくのを感じた。短歌の世界に触れてからノンバイナリーのひとを知ってノンバイナリーということばを知った。「どちらでもない」「性別がない」わたしもノンバイナリーなのかもと思った。そしていま。まだほんとにそうなの?って混乱の最中。
ちなみに、わたしは他人からどう呼ばれるかとかどういう性別で扱われるかといったことについては、人間として当たり前の敬意や情があるのであればこだわりはない(ステレオタイプな女性像を押しつけられるのは勘弁だけどそんなのはシスジェンダーの女性だって同じだろう)。他人の言動を制御したいとは思わないし、むりだと思うから。というか他人に「こうして」と言えるほどじぶんのことをわかってないし、わかったとしても現実の世界でオープンにしたいとも思わない。