※本稿は、ラーメンと孤独をめぐる私的な批評エッセイです。「ラーメンマン」は筆者が独自に定義した概念であり、ススル本人の公式な肩書きではありません。実在人物や商品についての記述は、筆者自身の体験・感想・比喩に基づくもので、客観的な人物評価や事実認定を意図するものではありません。
序章 ラーメンマン失格
おれはもう、ススルを「ラーメンマン」とは呼ばれへん。いきなりこんなことを言うたら、結婚した人間へのひがみやとか、古参ファンの勝手な裏切られ意識やとか、だいたいそのへんに片づけられると思う。実際、半分くらいはそうかもしれへん。けど、おれが言いたいんは、結婚したらラーメンへの愛が減るんちゃうかとか、父親として毎日ラーメンは失格やとか、そんな単純な話やない。愛の量を測りたいわけやないねん。問題にしたいんは、ラーメンという食べ物がどこに置かれているかや。人生の真ん中に丼があるんか。それとも、丼より先に帰る場所や守る場所があるんか。その違いを、おれは無視できへん。
そもそも「ラーメンマン」は、ススルが自分で名乗った肩書きやない。毎日ラーメンの動画を投稿し、店を回り、麺をすすり続ける姿を見て、こっちが勝手に託した称号や。知識があるからでも、店主と顔が利くからでも、再生回数が多いからでもない。ラーメン以外のものが視界から消えているように見えた。その危うさに、おれは勝手に代表性を見た。つまりこの称号は、本人の所有物やない。見る側の欠落が作った幻みたいなもんや。せやから、こちら側の都合で剥がれ落ちることもある。
この本は、ススルの活動を採点するコラムやない。動画投稿者として何本出したとか、何軒紹介したとか、業界にどれだけ貢献したとか、そういう実績を否定する気もない。むしろ、そこを混ぜたら話がぼやける。おれが考えたいんは、「ラーメンマン」という勝手な称号が、どんな孤独の上に成り立っていたかや。そして、その称号を必要としてしまうおれは何者なんか、ということや。ススル問題は入口にすぎへん。ほんまの主題は、ラーメンという食べ物の存在論的な孤独性にある。難しそうな言い方をしたけど、要するに、なんでおれは一人で丼に向かうときだけ、ちょっとだけ救われるんか、という話や。
ラーメンはうまい。そんなことは前提や。けど、うまいだけなら、ここまで人生に食い込んでこん。もっと満足感が得れる料理もある。もっと栄養の整った飯もある。もっと誰かと楽しく食えるものもある。それでも、仕事帰りの夜、予定のない休日、誰にも連絡せずに済んだ夕方に、おれはラーメン屋の暖簾を探す。そこは孤独を消してくれるわけやない。むしろ孤独のままでいてええと、五分か十分だけ許してくれる。その許可証みたいなもんが、目の前の一杯や。
せやからこれは、たかがラーメンの話やない。結婚できへん人間の負け惜しみだけでもない。人が誰かと結びつくことを前提に作られた社会の中で、結びつけへん夜をどうやってやり過ごすか。そのための場所と食べ物についての話や。おれはその場所をラーメン屋と呼び、その食べ物をラーメンと呼んできた。そして、その孤独を背負って丼の前に立つ象徴を、ラーメンマンと呼んできた。まずは、その言葉の中身を、一杯ずつ確かめていきたい。
第一章 一日はラーメン区切られる
一日はラーメンで区切られる。朝起きて最初に考えるんは、今日どこで食うかや。朝飯を何にするかやない。昼に行くなら開店何分前に着くべきか。夜に行くなら材料切れの可能性はあるか。雨なら並びは減るか。限定は残っているか。仕事の予定はその周りに置かれる。生活の中心に仕事があって、その隙間でラーメンを食うんやない。丼を中心にして、残りの予定を何とか押し込む。そこまでいって初めて、一日が形になる。
店の定休日で曜日を知り、限定の告知で季節を知る。桜が咲いたから春やない。冷やしの告知が出たから春の終わりや。つけ麺の行列が伸びたら夏が来る。味噌の湯気が眼鏡を曇らせたら冬や。世間の暦はこっちには関係ない。カレンダーに書かれた祝日より、臨時休業の一行のほうが重い。連休の予定を聞かれても、店の営業情報が出るまでは答えられへん。人生設計なんてあらへん。あるのは今日の一杯と、明日並ぶ店だけや。
この感覚を、ただの趣味と言われると困る。趣味には、やらん日があってもええ。映画好きが映画を見ない日もあるし、釣り好きが海へ行かん週もある。それで人生が欠けたとは思わへんやろ。でもラーメンのない一日は、最初から何かが抜けている。食べたから偉いわけやない。食べへんかったから罰があるわけでもない。それでも夜になったとき、今日という日を正しく閉じられへん感じが残る。歯を磨き忘れたとか、鍵をかけ忘れたとか、そういう不安に近い。丼を経由せずに終わった一日は、保存に失敗したデータみたいに手応えがない。
もちろん毎日食えば体にええ、という話ではない。健康診断の数字は嘘をつかへんし、胃も年齢に合わせて弱る。金もなくなる。それでも行く。ここで大事なんは、理性に勝った食欲やない。理性の置き場所が、最初から丼の後ろにあるということや。健康を捨てたいわけやない。将来を壊したいわけでもない。ただ、将来のために今日の一杯を我慢するという順番が、どうしても理解できへん。まだ来てへん明日のために、今ここにある湯気を諦める。その判断のほうが、おれにはよっぽど不自然に見える。
ラーメンを食うことが生活の一部なんやない。生活のほうが、ラーメンを食うまでの待ち時間になっていく。電車に乗る。働く。金を受け取る。店まで歩く。券売機の前に立つ。この流れが一本につながったときだけ、自分が社会の中を正しく移動できたような気がする。給料は生活費やない。次の一杯まで自分を運ぶ燃料や。休日は休む日やない。平日に行けへん店へ行くための空白や。そうやって世界を丼の周りに並べ直すと、ようやく呼吸がしやすくなる。
普通の人から見たら、窮屈な人生に見えると思う。もっといろんなものを楽しめばええ。旅行したらええ。恋人を作ったらええ。家族と食卓を囲んだらええ。正しい。全部正しい。でも、選択肢が増えることが、そのまま豊かさになる人ばかりやない。選べるほど苦しくなる人間もおる。俺らにとってラーメンは、世界を狭くしてくれる。今日は何をしたいか、どんな人生を送りたいか、誰と幸せになりたいか。そんな大きすぎる問いを、醤油かとんこつか、家系か二郎系か、並か大盛りかにまで小さくしてくれる。その小ささに救われてる。
第二章 孤独モンの五分
ラーメンは孤独モンの飯や。ここでいう孤独モンは、一人暮らしの人間だけを指すんやない。友達がおっても、職場でしゃべっても、家族と暮らしていても、誰にも渡せへん時間を抱えている人間はおる。人に説明するほどでもない疲れ。心配されるほどではない寂しさ。助けを求めるには小さすぎて、放っておくには毎日重い何か。そういうもんを持ったまま、一人分の席に座る人間を、おれは孤独モンと呼ぶ。
必要なんは一人分の席、湯気の向こうの麺、黙ってすする五分だけや。会話はいらん。自分を説明する必要もない。今日はしんどかったと言わんでええし、何があったか聞かれへん。券売機のボタンを押した時点で、こちらの要求はだいたい伝わっている。あとは待って、受け取って、食う。それだけや。人間関係では、黙っていたら不機嫌やと思われる。ラーメン屋では、黙っていることが完成形になる。
この五分は短い。短いからええねん。二時間も三時間も滞在したら、そこは居場所になってまう。居場所になれば、常連としての振る舞いが生まれる。店主との距離、隣の客への配慮、いつもの注文、覚えられた顔。関係が生まれた瞬間、孤独はまた説明を求められる。せやから俺らは食ったら出る。救われ切る前に席を立つ。店に恩返しをするなら、感想を長々伝えるより、丼を空にして一席を空けるほうがええ。
一人で来て、黙って食うて、長居せずに消える。その動きには、孤独モンの美学がある。誰にも迷惑をかけず、誰にも覚えられず、けれど確実に一杯分の金を置いていく。店から見れば客でしかない。客から見れば、その夜を終えるために必要な場所や。この温度差がええ。店に人生を預けているのに、店は俺の人生を背負わんでええ。丼を出し、空の丼を下げる。それ以上の責任を互いに要求せえへん。
孤独モンには、孤独を治してほしいわけやない者もおる。治療されたら困るねん。孤独がなくなったあと、何者として生きたらええか分からへんからや。寂しいなら誰かと会え、趣味を増やせ、外へ出ろ。世間は簡単に言う。でもラーメン屋だけは、そんな助言をしてこん。黙って座っている人間に、もっと社交的になれとは言わへん。麺が伸びる前に食え。それしか要求してこん。その単純な命令に従っている間だけ、人生の複雑さから離れられる。
丼を空にしたあと、孤独が消えているわけやない。店を出たら、また一人や。連絡は来てへんし、帰った部屋も暗い。それでも、食う前と食ったあとでは孤独の重さが少し違う。言葉にならへんもんが、スープと一緒に腹の底へ沈んでいる。解決やない。沈殿や。明日になればまた浮いてくる。それでええ。永遠に救ってもらおうなんて厚かましい。今日を閉じる五分だけ貸してもらう。その繰り返しで、孤独モンは何とか日付をまたいでいく。
第三章 カウンターという装置
ラーメン屋のカウンターは、ただ席を並べた家具やない。孤独を人前に置いても不自然に見せへん装置や。喫茶店で一人、何もせずに座っていたら、待ち合わせか、仕事中か、何か理由が要る。居酒屋で一人なら、酒好きとか常連とか、また別の物語がついてくる。ラーメン屋のカウンターには理由がいらん。腹が減った。それだけで座れる。孤独に説明書をつけずに済む。
横並びなのも大きい。向かい合わへんから、表情を管理せんでええ。隣に人がおっても、視線は丼へ落ちる。全員が同じ方向を向きながら、誰とも一緒におらん。あれは不思議な共同体や。孤独モンが何人も並んでいるのに、孤独を共有せえへん。共有したら仲間になってしまう。仲間になる一歩手前で、同じ湯気だけを浴びている。近いけど遠い。その距離が、たまらなく落ち着く。
厨房との距離も近い。湯切りの音、丼の触れる音、注文を通す声。何かが作られている気配が、壁一枚もなく届く。けど、そこに参加する必要はない。店主の技術を見ても、感想を求められへん。こちらはただ待つ。自分のために一杯が組み上がっていく数分間、存在を忘れられていた人間にも、順番が回ってくる。食券の番号でも、注文の順でもええ。とにかく自分の一杯が来る。それだけで、自分が世界から完全には抜け落ちてへんと確認できる。
テーブル席が悪いと言いたいんやない。家族でラーメンを食うのも、友達と感想を言い合うのも自由や。ただ、ラーメンという食べ物の輪郭がいちばん濃く出るんは、やっぱりカウンターやと思う。テーブルでは、ラーメンが会話の一部になる。カウンターでは、会話の代わりになる。誰かと過ごす時間の中にラーメンがあるんやなく、ラーメンを食う時間だけが単独で成立する。丼が主語になる。
カウンターには、長居しにくいという冷たさもある。背もたれのない椅子。狭い間隔。後ろで待つ客の気配。食い終わったら出ていけという無言の圧力。普通なら不親切に思える。でも孤独モンには、その冷たさがありがたい。いつ帰ればええか悩まんで済むからや。会話の切れ目を探す必要も、名残惜しそうな顔を作る必要もない。丼が空になったら終わり。終わり方が決まっている場所は、始め方も分からん人間にやさしい。
店は客を長居させる理由がない。客も店に長居する理由がない。その利害の一致が、おれを受け入れてくれる。愛想がなくても、社交性がなくても、食券を買って順番を守れば一人分の客として扱われる。社会の多くの場所では、人柄や肩書きや関係が価値になる。カウンターでは、一杯分の代金と、食い終えるまでの時間だけが価値になる。そこでは孤独が欠点として数えられへん。むしろ一人で完結できることが、最適な客の条件になる。
第四章 千円札の共同体
ラーメンの安さを、原価や回転率だけで説明するつもりはない。店ごとに事情は違うし、材料も光熱費も人件費も上がる。おれは経営の専門家やない。ただ、客としてカウンターを見続けてきた実感がある。一人で来て、黙って食って、長居せずに帰る人間の連続が、店の時間を前へ進めている。孤独モンの短い滞在が、一杯を現実的な値段で受け取れる世界の一部を支えている。おれはそう思ってる。
一人客は、席が一つ空けば入れる。相談して注文を決めへん。食事の途中で話が盛り上がって箸が止まることも少ない。食い終われば立つ。もちろん全員がそうやないし、家族客が店を支えている場面もある。それでも、ラーメン屋の速度と孤独モンの速度はよう似ている。どちらも説明を省き、目的までまっすぐ進む。店は一杯を出し、客は一杯を受け取る。その交換に余計な物語を足さへん。
孤独モンには居場所がない。ラーメン屋には、客を長居させる理由がない。せやから両者は噛み合う。これは温かい絆やない。名前も知らんまま成立する利害関係や。けど、世の中には利害が一致することでしか守られへん尊厳もある。店がおれを心配してくれへんから、俺も自分の不幸を説明せずに済む。おれがすぐ帰るから、店も次の一杯を出せる。互いに深入りせえへんことが、互いを助けてる。
千円札一枚で、腹と心の両方を満たせる。そう言い切れた時代は終わりつつあるかもしれへん。それでも、コース料理や酒席に比べたら、一杯の中で完結する強さは残ってる。誰かを誘う必要がない。服を選ばんでええ。話題を用意せんでええ。一人分の金だけ握って暖簾をくぐれる。その安さは、値札の数字だけやない。人間関係に払う費用がいらんという意味でも安い。孤独モンに残された少ない資源で、手の届くぜいたくや。
店にとっておれは、多くの客の一人や。それでええ。唯一の客になりたいわけやない。特別扱いされたら、次に行くときの責任が生まれる。久しぶりやねと言われたら、来なかった理由を考えてまう。孤独モンが欲しいんは、覚えてもらうことやなく、同じように扱ってもらうことや。何度通っても、初めての客と同じ手順で食券を買い、同じように一杯が出てくる。その反復可能性が、生活を支える。
ラーメンと孤独モンは、互いの欠落で成り立つ関係や。店には席を埋める客が要る。孤独モンには、何者にもならず座れる席が要る。店は孤独を商品にしているわけやないし、客も慈善で通うわけやない。それでも結果として、店の空席と俺らの空白がぴたりと重なる。その瞬間だけ、欠けたもの同士が一つの形になる。丼が空になれば、また離れる。永続せえへんからこそ、きれいな関係やと思う。
第五章 欠落の深さ
ラーメンマンの称号は、知識や人脈に与えられるもんちゃう。何系の店を何軒知っているとか、店主と写真を撮れるとか、限定の情報が早いとか、そんなんは能力や。能力は努力で増やせる。ラーメンマンに必要なんは、増やすことのできへんものや。むしろ、失ったものの量やと思う。丼以外に自分を支えるものがどれだけ少ないか。ラーメンのない日に、世界がどれだけ薄くなるか。その欠落の深さに、おれは勝手に称号を与えてきた。
これは褒め言葉に見えて、ほとんど呪いや。ラーメンしかない人間を、格好ええ象徴に仕立てたらあかん。予定も健康も将来も丼の後ろに置く生き方は、現実にはしんどい。金も体力も減る。店が閉まれば途方に暮れる。好きなものが一つしかない人間は強そうに見えるけど、その一つを失えば全部が崩る。せやのにおれは、その危うさに引かれてまう。自分にはできへん献身を見たいからや。あるいは、自分の危うさを誰かの姿に映して安心したいからや。
丼が世界の中心である、というのは、ラーメンを最優先する宣言だけやない。丼を中心に置かんと、世界に中心ができへんという告白でもある。家族、仕事、夢、友情。普通はそういうものが人生を引っ張る。けど、それらがうまく持てへん人間もおる。何かを愛する能力がないわけやない。ただ、相手のあるものは怖い。拒絶されるかもしれへんし、期待に応えられへんかもしれへん。丼は拒絶せえへん。金を払い、出されたものを食う。その関係だけは裏切り方が決まっている。
ラーメンマンは、ラーメンに詳しい代表者やなく、ラーメンにしか代表されへん人間や。肩書きは上から与えられるもんやない。投票で決めるもんでもない。本人が宣言した瞬間に成立するもんでもない。周囲が見て、この人からラーメンを取ったら何が残るんやろう、と不安になったときに、勝手に立ち上がる。尊敬と心配の境目に生まれる称号や。
せやから、成功はラーメンマンを弱くすることがある。再生回数が増える。仕事が広がる。人脈ができる。会社ができる。家庭ができる。それ自体は、どう考えてもええことや。人間として前へ進んでいる。でも、ラーメンしかないように見えた人間に、ラーメン以外のものが増えたとき、称号の根拠やった欠落は埋まっていく。能力は上がっても、象徴としての純度は下がる。これは本人の失敗やない。こちらが勝手に作った神話の寿命や。
おれは、幸せになるなと言いたいんやない。そんな権利はない。家庭を持てるなら持ったらええし、仕事が広がるなら広がったらええ。ただ、幸せになった人間に、幸せになれへん側の象徴まで続けてやってくれと頼むのは無理がある。ラーメンマンという称号が、孤独モンの欠落から生まれたものなら、その欠落から離れた人間を縛りつけるべきやない。称号を外すことは、罰やなく解放でもある。問題は、そのあと誰が立つんかや。
第六章 ススル問題
ススルが結婚したからラーメンマン失格や。そう一行で書けば、ただの暴論に見える。結婚とラーメンへの愛に、直接の因果関係なんかない。家庭を持ちながら、深くラーメンを愛する人はいくらでもおる。動画投稿を続けることもできる。父親になったら舌が変わるわけでもない。ここを曖昧にしたら、単なる個人攻撃になる。おれが言いたいんは、愛の量や能力やなく、象徴としての立ち位置の変化や。
おれが画面の向こうに見ていたんは、毎日ラーメンを食う動画投稿者であると同時に、ラーメン以外の生活が見えへん男やった。もちろん、最初から画面外には生活があったはずや。人間なんやから当たり前や。それでも動画という枠の中では、次の店へ向かい、丼を前にし、すすり、また次へ行く。その反復が一人の人間を記号に変えていた。おれはその記号を、勝手にラーメンマンと呼んだ。
結婚は、その画面の外側を急に可視化する。帰る場所がある。守るべき人がいる。丼とは別の時間が流れている。それは人間として自然で、祝われるべきことや。けど、ラーメンしかない象徴として見ていた側からすれば、神話の外壁に窓が開く。窓の向こうに生活が見えた瞬間、丼が世界のすべてではなかったと分かる。裏切られたんやない。最初からこちらが、見たいものだけを見ていたんや。
それでも感情は、理屈どおりには片づかへん。ラーメンは孤独モンの飯やと思ってきた人間にとって、その代表が孤独の外へ出ていくことには、置いていかれる感じがある。自分が勝手に代表にしただけやのに、勝手に残ってくれると思っていた。成功しても、結婚しても、父親になっても、丼だけを見ている顔でいてほしかった。そんな要求は不可能やし、身勝手や。それでも、その身勝手さまで含めて、ファンが作る称号なんやと思う。
ススルはススルや。ラーメンの動画を投稿する人で、その活動は本人のものや。ラーメンマンはおれの語彙で、おれの側の問題や。せやから、本人に返上を求める筋合いもない。返すべき公式の称号なんか、最初から渡されてへん。ただおれが、もうそう呼べへんと思うだけや。これは失格通知やなく、見え方の変化を記録する私的な判決や。裁判官もおれ、原告もおれ、傷ついていると主張する被害者もおれ。被告席に本人を座らせる必要すらない。
そう考えると、ススル問題の中心にススルはおらん。中心におるんは、誰かの継続を見て、自分の孤独を預けたおれや。毎日投稿される一本が、自分の空白まで埋めてくれると思った。画面の中の人間が変わらずすすり続けることで、自分の生活にも一本の芯が通る気がした。その人が別の幸せを持ったとき、預け先を失った気がした。これはラーメン愛の議論やない。代理人を失う怖さの話や。
第七章 しょっぱい一杯
ファミマの監修麺は、おれにはありえへんくらいしょっぱかった。ここで大事なんは、客観的に世界一しょっぱいと証明することやない。俺の舌がそう受け取った、という事実や。商品開発にはいろんな事情がある。時間がたっても味がぼやけへんようにするとか、コンビニで求められる分かりやすい強さがあるとか、価格や製造の制約があるとか。孤独モンにも、そのくらいは想像できる。店の丼と監修商品が同じ条件やないことも分かってる。
それでも、監修という言葉には判を押す感覚がある。全部を一人で作ってへんとしても、名前が前に出る以上、その一杯は象徴と結びつく。おれはそこで、味の好み以上の違和感を覚えた。ラーメンマンとして見てきた人間が、この濃さを孤独モンの一食として通したんか。毎日の中で逃げ場のように食う一杯を、話題になる強さへ寄せたんか。そんな疑いが、しょっぱさのあとに残った。
もちろん、これは味覚が壊れたという医学的な話やない。そんなことはおれに分からへんし、断定する気もない。言いたいんは象徴の舌や。俺が勝手に想像していた、丼だけを世界の中心に置く者の舌。その舌なら、孤独モンが一人で食い切る最後の一口まで考えるはずやという期待。その期待と、実際におれが食べた味が噛み合わへんかった。せやから、しょっぱさが単なる味の感想で終わらず、称号の空洞を確かめる出来事になった。
一杯がしょっぱいくらいで大げさや、と言われたらその通りや。ラーメンには濃い味もあるし、好みも体調も違う。一商品で人間全部を判断するんは雑や。でも神話が壊れるきっかけは、たいてい大事件やない。小さな違和感や。言葉の端、目線、味の一口。それまで見ないふりをしていた変化が、一点に集まって見える。おれにとって、あの一杯がそうやった。結婚で開いた神話の窓から、しょっぱさが風みたいに入ってきた。
孤独モンの一食は、レビューの材料やない。その日の予算を使い、空腹を預け、もしかしたら唯一の楽しみとして選ぶ一杯や。次の店へすぐ移動できる人間にとっては多数ある丼の一つでも、買った側にはその夜の全部かもしれへん。せやから名前を貸す側には、うまいかまずいか以上に、一食の重さを想像してほしい。俺が求めていたラーメンマンの舌は、味の細部を当てる舌やなく、その重さを忘れへん舌やった。
称号は、味より先に空洞化していたんやと思う。しょっぱい一杯が称号を壊したんやない。すでに中身が薄くなっていたところへ、一口目の塩気が輪郭をつけた。おれはそこでようやく、昔と同じ名前で見続けることをやめた。ススルは動画投稿者として続いていく。商品を作り、店を紹介し、活動を広げていく。それはそれでええ。ただおれの中のラーメンマンは、もう別の場所を探し始めていた。
第八章 次のラーメンマン
もう、その称号をススル一人に背負わせるには重すぎる。いや、最初から一人に背負わせるようなもんやなかったのかもしれへん。毎日投稿する人間に、毎日孤独であることまで要求する。成功しても生活を持つなと願う。そんな称号は、応援の言葉に見えて呪縛や。せやから一度、ススルから降ろしたほうがええ。本人のためというより、おれが自分の孤独を自分で持ち直すために。
それでもおれは、次のラーメンマンを待っている。懲りてへん。象徴が危険やと分かっても、象徴なしでは自分の欠落に形を与えられへんからや。ただし、次に必要なんは、ラーメンが好きなだけの奴やない。知識が多いだけでも、食べる量が多いだけでも、動画がうまいだけでも足りへん。ラーメンが趣味なんやなく、ラーメン以外がない奴。そう見えてしまう若手が、下から突き上げてこなあかん。
予定も健康も将来も、丼の後ろに置ける奴が要る。新店の開業日に合わせて仕事をずらし、限定のために始発へ乗り、給料が入れば遠征の交通費を先に分ける。食った杯数を自慢するんやない。食えへんかった一日を欠損として数える。うまかった店だけ覚えるんやない。臨時休業のシャッター前で立ち尽くした時間まで、人生の一部として抱える。そういう無駄の深さがいる。
ただ、おれが面接して選ぶんやない。代表は選ばれるもんやない。ランキングの一位でも、審査員が決めた受賞者でもない。本人が「今日から俺がラーメンマンです」と名乗ってもあかん。周りが気づいたときには、もう立っている。誰も頼んでへんのに店へ向かい、誰も見てへんところで丼を空にし、ラーメンのない時間に耐えられず、勝手に生活を削っている。他になんも持たん奴が、気づけばそこへ立つんや。
その姿は、たぶん格好よくない。服にはスープの匂いが残り、健康診断の紙は折ったまま、貯金は増えへん。人に話せる将来像もない。せやけど、丼を前にした瞬間だけ、目の焦点が合う。世界との接続が回復する。その一瞬を見た側が、自分と同じ欠落を感じ取る。そこで初めて、称号が生まれる。ラーメンマンは強い人間やない。ラーメンに接続しているときだけ、かろうじて形を保てる人間や。
若手に突き上げてほしい、という言い方には、競争みたいな響きがある。でも、ほんまはススルを倒してほしいわけやない。再生回数で抜く必要もないし、有名店とつながる必要もない。俺が見たいんは、別の切迫感や。成功への階段としてラーメンを使うんやなく、ラーメンへ行くために他の階段を降りてしまうような人間。損得で考えたら止めるべきやのに、止まれへん人間。その不器用さが、孤独モンの代表になる。
終章 丼の前にしかない場所
ここまで書いて、「結局お前は、結婚できへん自分を正当化したいだけやろ」と言われたら、強くは否定できへん。ススルのとこの社長、その奥さんのお料理チャンネルを前から見ていて、めちゃくちゃ好きやったことは――もちろん、この話には関係ない。たぶん。
けど思想なんて、だいたい負け惜しみから始まる。手に入らへんものの価値を下げ、手元に残ったものを神聖化する。おれにとって、それがラーメンやった可能性はある。家族の食卓を持てへんから、カウンターを聖域と呼んだ。帰る場所がないから、長居できへん店を居場所と呼んだ。欠落を誇りに変えんことには、やってられへんかった。
けど、負け惜しみから始まった思想が、全部嘘やとは限らへん。孤独モンが一人で座れる場所は、ほんまに必要や。会話を求められず、理由を聞かれず、短い時間だけ受け入れられる場所。そこに助けられてきた夜がある。ラーメン屋は救済施設やないし、店主にそんな責任を負わせたらあかん。それでも結果として、一杯が人間を次の日まで運ぶことはある。その小さな事実まで、負け惜しみとして捨てる必要はない。
ススルはススルや。これからも動画を投稿し、ラーメンを食い、活動を続けていくやろう。俺が勝手に与えた称号を勝手に外しても、本人の何かが減るわけやない。むしろ減るべきなんは、こちらの期待や。誰か一人に、自分たちの孤独を永遠に代表させることはできへん。人は変わる。生活を持つ。守るものが増える。その変化を裏切りと呼んで縛りつけるのは、ラーメンの話以前に間違ってる。
それでも称号は消えへん。孤独モンがいる限り、自分らの欠落を映す誰かを探してしまう。次のラーメンマンは、もうどこかのカウンターに座っているかもしれへん。投稿もしてへん。名前も知られてへん。ただ、閉店間際の店で一人、丼の底を見ている。明日の予定より、最後の一口を優先している。その姿をまだ誰も見つけてへんだけや。
代表は選ばれるもんやない。他になんも持たん奴が、勝手にそこへ立つ。せやけど、立った本人には、自分が代表やという自覚すらないほうがええ。自覚した瞬間、それは役割になり、仕事になり、生活の外側が増えていく。ラーメンマンは名乗れへん。名乗ったら終わる。丼だけを見ている横顔を、周りが勝手にそう呼ぶ。その距離にしか、称号は存在できへん。
一日はラーメンで区切られる。定休日で曜日を知り、限定の告知で季節を知る。人生設計なんてあらへん。あるのは今日の一杯と、明日並ぶ店だけや。孤独は消えへん。消さんでもええ。黙って座れる一人分の席があり、湯気の向こうに麺がある。その五分だけ、世界の中心は確かにここにある。俺らは丼を空にし、席を立ち、また何者でもない人間に戻る。それでも明日、もう一度ここへ来られる。今は、それで十分や。