会社を休んだ日

水上都市の鼓笛隊
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公開:2026/3/21

 先週、お風呂に入れない日が3日ほど続いた。平日だった。上司には、強い腹痛があると説明した。他にどう説明したらいいのかわからない。馬鹿正直に話すわけにもいかない。毎朝、欠勤連絡のためだけに上体を起こし、電話を切るとともに横になった。目を閉じると、5分と経たずに意識は落ちる。

 目覚めると寝汗でぐっしょり濡れている。便意があり、お腹が空いている。何より喉が渇いている。しかしそうした体の訴えをひとつも聞き入れる気が起きない。

 4日目、ようやくシャワーを浴びた。鏡を見ると顔に新しい吹き出物がいくつもあった。皮膚科で処方された軟膏を塗る。

 上着を着て外に出た。よく晴れていて気持ちがいい。自宅の扉を開けただけなのに、ここまでが長い道のりのように感ぜられた。

 電車に1時間揺られて心療内科に向かう。受診するのは1年ぶりだった。通院も服薬もしていなかった1年の間、何度かこうなることはあった。だが大抵1日2日あれば動けるようになり、わたしはまた何食わぬ顔で出勤した。鬱がここまで長引くのは学生時代以来だ。

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 通院しなくなったきっかけは、元々ここに通い始めた理由である不安障害がよくなったことだ。一生治らないと思っていた症状が認知行動療法で改善し、調子に乗った。当時、特段強く服薬を続けるように言われてはいなかったので、わたしはフェードアウトするように通わなくなった。その心療内科に悪印象はなかったが、いつも5分診療なので、出費が惜しくなった。そのツケが、今こうして誤魔化しの効かない形で回ってきたのである。

 自分の中では、「バッド」と呼ぶことにしている。バッドコンディション、の意。鬱に限らず偏頭痛やPMS、ふつうの風邪など、広く体調不良を指す言葉として採用されているのをSNSで見て、わたしもそれに倣った。この呼称を使うことで、鬱という言葉の強さに引っ張られなくなったと思う。「メンタル」という言葉も使わなくなった。

 心の健康(mental health)は脳の健康であり、つまりは体の(physical)健康だ。精神論は、それが現状の打開に寄与するならば採用する。そうでないならば、自分を責めるのは建設的ではない。試しに布団の上で1時間「鬱は甘え」と唱えてみて、動けなかったら他の方法を探すべきだ。

「言説」で体は治らない。必要なのは慰撫でも叱責でもない。わたしの場合、定期的な通院と服薬がまだ必要だったようだ。

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 生活習慣は何に気を付けたらいいですか、と尋ねると、主治医は言った。生活リズムを崩さないこと、日光を浴びること、適度に運動すること。仕事は朝早くから始まり、肉体労働なので、いずれの項目も毎日クリアしていた。その旨を伝えると、「そしたら今は、休みましょう」と言われた。

 バッドを攻略するための、チェックリストがある。そこに今回の診察で得たヒントを簡潔にメモした。このチェックリストには調子が悪い時、心身の状態や、何ができて何ができないのか、といったことを書いている。机に向かうのが難しい時は寝床にPCを持ち込んでメールを返しただとか、ストレスで食べ過ぎた時は一旦昼食を抜くと楽になるだとか、自分が試した対処法とその効果も列挙する。

「こういう考え方をすると頑張れる」といった考え方の問題は、突き詰めると認知の歪みに繋がる気がするので書かないことにしている。対策を講じる時はマインドセットに関する仮説をできるだけ排して、具体的な行動に焦点を絞る。

 その他には、視聴が負担にならない音楽やラジオ、YouTubeチャンネルやドラマ、アニメまで、逐一そのリストに書き加えている。

 本やネットで出てくるような一般論だけで、心身の不調に打ち勝つことは難しい。自分のクオリアを建設的な改善策に繋げるためのリストなので、他の当事者がそのまま使えるような内容にはしていない。

 正直に言って、これらの項目から、バッドに入る時に共通する条件や、万能薬のような対策を導き出すことは難しい。むしろ書けば書くほど法則性なんてものはないと思い知るばかりだ。無数の因子があり、無数の回路がある。だからトライ&エラーしかない。けれどそれを繰り返すうちに、わたしは時々、避けがたく信用を失っていく。

 電話が繋がらず、遅刻する旨をLINEに入力する。まだシャワーを浴びていない。今から身なりを整えて家を出るまでに1時間はかかるだろう。到着時刻を計算し、連絡する。いつ動き出せるかすらわからない時は、「追って連絡します」と伝える。このやり方で何とか出勤できた日もあった。しかしそれが通用したのは今までの上司が緩かったからで、普通はそうも行かない。

 今の上司は4月で退職する。引き継ぎで職場に来ている後任の上司から「明日の出勤可否、16時までに教えてください」と来る。前日16時の時点でわかることなど、ない。

「明日は這ってでも出勤します」と、意思表示をすることならできる。けれど先週はそれで一敗した。できなかったら嘘を吐いたのと同じことだ。わたしは謝罪する。

 第一印象でわたしを気に入ってくれた人ほど、失望の色を隠さない。わたしを見る彼らの目を見るたび、思う。「わたしが傷つけたのだろうか」。

 もう少し長く、あなたたちの可愛い後輩でいたかった。「元気だね」という大人の笑顔も、「いい子」の称号も、皆勤賞も、かつては皆わたしのものだった。今それらを手にしているのは別の誰かだ。真面目にやっていても離れていくものなのだな、この手の勲章って。

 出勤を妨げるのが鬱なだけ、恵まれている。さすがに自分を「弱者」や「持たざる者」認定するほど恥知らずではない。今わたしが曲がりなりにもフルタイムで働けているのはわたしの努力の成果でも何でもない。

 健康は特権だ。不平等に分配された資源なのだ。なればこそ、鬱ごときで「動けない」などと宣う己を呪わしく思うわたしもいる。

「本当の意味で「動けない」人の前で、同じことが言えるのか?」

(「本当の意味で「動けない」人」とは? わたしは誰を想定して言ってるんだ? そういうのを差別って言うんじゃないか?)

「動けない」は、確かに自分の実感を表すにはふさわしい。だが主治医の「動けなくなるんですね」という言葉には、いつも居心地の悪さを覚えながら曖昧に頷くしかない。

「動けない」って何だ?

 症状への対処を考える上では無意味だが倫理的には必要であろうこの問いを、たぶんこれからも抱えていくことになる。

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 週明け、わたしは何とか定刻に出勤した。今回も一応戻ってくることができた。でも次はわからない。

 こういうことがある度に、もう二度と出勤できないんじゃないかと恐ろしくなる。あまりに不安で夜中に職場の前まで行って、大丈夫だと自分を安心させたこともある。あと何回、こういうことを繰り返せばいいのだろう。

 乗り越えても、乗り越えた気がしない。次があると確信しているからだ。そして、その直感は当たる。一度は乗り越えたことを、今度は別の切り口で攻略しなければならない。前回のやり方では駄目でしたと言われているような気分に、毎回突き落とされる。

 はいダメー! その攻略法は認めませーん。

 やり直しをさせられる。無限に。乗り越えた自負そのものが、そのうち自分の中に芽生えなくなる。

 チェックリストを作るのはせめてもの抵抗だった。内容よりも、絶えず更新すること自体に意味がある。有効打を見つけることは可能だと、わたしが信じ続けるために。

 2日働いて、その翌日は休みだった。心療内科で処方された薬も、今のところ欠かさず飲めている。人と話す時は基本的に軽口を叩いているので、この陽気さが元来のものなのか薬の効果なのかはわからなかった。ともあれ、ようやく調子が戻ってきた。そう思った。