※ハラスメントについての記述があります
居心地のよかったアルバイト先に舞い戻り、また働かせてもらっている。親しくしてくれた人たちに近況を報告しようにも、離れていた一年弱の間は特段人生が進んだ実感がなく、話すことがない。ここを一度離れてからは、維持と挑戦のどちらをとるのか中途半端で、新しく始めたフードコートの調理補助もすぐに辞めてしまった。うつがひどかった時期でさえ洋菓子店のアルバイトをずるずると一年続けていたのに、あれから数年、回復した私は、あのときよりも安易な選択をすることに躊躇がなくなっている。
仕事は覚え甲斐があり、いじわるな人は少なく、従業員用通用口から出たときに頬を撫ぜる夜風は心地がよかった。それでも「これを乗り越えた先の未来に興味がない」という思いが、働いている間も、一睡もできずにスマホのメモに日記を書いている間も頭の中で幅を利かせ、やがて無視できない質量を帯びてくる。ここが世界のすべてではない、ここでやっていけなくても私の居場所はある、そう信じられることは、私に飛躍だけでなく怠慢の隙をも与えた。どこにも行けない、どこに行ったってやっていけないと悲観しながら重い身体を引き摺って従業員用トイレで着替えていた(人がいる更衣室で着替えるのがこわかった。不衛生!)ときのほうが、頑張っていた気がする。
私はあのときよりも明るくなり、身なりに多少気を遣うようにもなったし、何より長い時間働くことができる。そのお金で実家を出ることもできた。だが、どうしてか今の自分は、あのときよりも必死に生きていないように思えてならない。
18のとき、はじめてのアルバイト先に洋菓子店を選んだ。コミュニケーション能力をつけたいと言って、接客業を選んだ。戦力にはなっていなかったと思う。出勤するたびに余計な廃棄や誤差を出した。迷惑をかけるがあまり、退職や異動でいなくなる店員へのプレゼント係になることくらいしか貢献できることがなかった。先輩たちからお金を集めて色紙と今治タオルを買い、自分にパワハラセクハラをしてきた社員のおじさんに渡す、というよく分からないことをした。「厳しくしてくださってありがとうございました」というふうなことを言った気がする。おじさんは「当たり前だよお前。見捨てられないようにガンバレよ」とエモい感じで言っていた。
ハッピーエンドのような雰囲気で日付が切り替わった途端、「おれの勝ちだ!」と叫びたくなった。「自分の被害を黙殺してでも、なんかいい感じに周りとうまくやる」。高校時代に人間関係に悩んで家族に無用な傷を負わせた私の反省だった。今なら言える、その反省は間違っている。
おじさんがいなくなった後、社員は女性の店長の一人だけになり、店舗の安寧を脅かす不穏分子は私だけになった。シフトに入る日がみるみる減っていき、私は平日の遅番と年末の繁忙期にだけ現れては店の前の人混みを悪化させるクラッシャーになった。
所属して一年が経ったころ、新しい店長がやってきて、「シフトを増やすなら増やすで。これ以上入ることが難しいならそれは契約とは違うから今後のことは考えて」とにっこりして言った。事実上の戦力外通告に対し、天啓を得たような心持ちで退職を願い出た。このときも維持と挑戦のどちらに踏み切ることもできずに、誰かに裁いてもらえるのを待っていたのだ。
アルバイトも学校もない休日に名札を返しに行った。店長と、私をよく叱ってくれた一つ上の先輩がいた。
今まで誰かが退職や異動をするときは、その人が出勤している時間帯にどうにか出向き、簡潔な挨拶を書いたメッセージカードと小さなお菓子を百均の巾着に入れて渡していた。店員同士の仲がよい店舗だ、先輩たちも何かしらそういうことをしていた。おじさんがいるときでさえそうだった。私以外はたぶんおじさんと仲がよかった。
おじさんは生意気なうつ病患者を調教しなければならない憂き目に遭った代わりに、若い女の子たちの丸っこい字の寄せ書きと今治タオルを受け取り、去っていった。ここで苦楽を共にした店員は等しく大切な仲間として温かく送り出される。私が辞めると知れば、先輩たちもきっと同じようにしてくれるだろう、そう疑いようもなく信じられることこそ、私がここで得た価値だった。だが自分はその祝福に値しないと思い、私は名札を返した後、もっとも付き合いの短い店長にだけ礼を言って、店舗を離れた。百貨店地下一階の、客として歩く限りはなんの恐怖も喚起されない、小綺麗な食品売り場をぐるりと一巡する。考えなおし、店舗の前に戻ってきた。私をよく叱ってくれた一つ上の先輩に、辞める旨を伝え、礼を言った。
その日の夜、先輩がメッセージを送ってきてくれた。「私にお礼を言うために戻ってきてくれてありがとう」といったことが書かれてあった。
ふつうはその場にいる全員にちゃんとお礼を言ってからいなくなるのだ。先輩にも挨拶することを決めて戻ってきたのは私の善性の証左でも何でもなかった。だが、それが何か相手にとっては感じ入るところのあるアクションだったらしい。「できなくても投げ出さず、真剣にやってるのが伝わるから、一度も見捨てようだなんて思わなかったよ」。あの社員が去り際に言ったことを知ってか知らずか、先輩はそんな言葉をくれた。
私が辞めた年の夏にその洋菓子店は百貨店の地下から姿を消し、今は別の会社が同じ場所で似たようなケーキを売っている。先輩たちとは連絡を取り合っていない。機種変更のときにLINEのデータが飛んだ。あのときもらったメッセージは消えた。私は自己改革と称して苦手な環境に飛び込んで人に迷惑をかけることをやめ、向き不向きと好き嫌いで行動することをすっかり自分に許可するようになっている。この変化は成長とも、堕落ともとれる。身の丈を知った気になるのにちょうどいい年頃なんて本当はないはずなのだ。あったとしても、少なくとも今ではない。中庸を学んだと言えば聞こえはいいが、うつのときよりガッツがないってどうなのだ。
あのころの自分に戻りたい、とは思わない。戻りたいわけがない。どうせ戻れるならもっと昔の、おかしくなる前の自分に戻りたいに決まっている。だがそれはかなわない、らしい。よく、うつやら適応障害やらで倒れた人が、「もとの自分には戻れると思わないほうがいい」と言っているのをネットで目にする。自分の実感としてもそれは正しいような気がしているものの、「脳味噌が不可逆に壊れる」ことに関する科学的な説明を見たわけではない。「戻れない」って、当事者の実感以外に何か根拠があるのだろうか。
「これが甘えならば自分の尻を蹴り上げて立ち直る方法を知りたいです。甘えでなかったとしてもやはり自分の尻を蹴り上げて立ち直る方法を知りたいです」
同じ時期、学校のカウンセラーに予約を入れるとき、うつ症状についての説明の末尾にそんな文言を添えた。とにかく易きに流れるのが怖かった。あのときの強迫観念が、今の私にはない。取り戻したいとは思わないが、そんな自分は過去の自分に負けているとも思う。短時間労働だろうが実家暮らしだろうがあのときの方が必死だったし瀕死だった。
だからといって、自分の中であの一年が思い出としてパッケージングされつつあるのは怖いし、歯止めをかけなければならないと思う。うつエピソードを努力や忍耐の文脈に(たとえ部分的にでも)回収して懐かしむことができるのは、当時の私がたまたま経済的に親を頼れる状況にあり、症状も軽い方だったからだ。
アルバイト先にいたハラスメント男のことを「おじさん」なんてちょっと滑稽味を添えて書いているのは、私が自分のことを、過去を重々しく語るに値しない人間だと思っているからに他ならない。したがって、語り口の軽さは事実の軽さを意味しない。私がボロボロになる前に人から振るわれた暴力も、ボロボロになったことで人から振るわれた暴力も、むろん自分が加担してしまった暴力も、本当は軽くないと思っているし、許してはいない。当たり前に、洋菓子店でのアルバイトも地獄を構成する一部だった。ただ、暴力や病が強固に絡みついた生活を後で振り返ったときに、「それだけではなかった」と思わせてくれる出来事はあり、私はそんな些細な祝福が再来する可能性に縋って働き続けていた。
洋菓子店を辞めた後は、パチンコ屋の清掃、訪問介護、調理補助をそれぞれ経験した。介護の仕事が自分に合っているように感じ、今はそこでアルバイトをしている。居場所があると感じるが、なればこそ尻に根が生える前に出ていかなければならない。井の中で健康に育つだけでは、従業員用トイレで着替えていたあのころの自分が報われない。
あのころには戻りたくない、あのころよりいい未来しかいらない。だが、あのとき先輩からもらった祝福に値する私であり続けたいと思う。