まぁ、向きたいと言ってるということは、つまりそういうことなわけで。間違っても、そういうことってどういうことだよと聞いてはいけない。そういうことなので。はい。
っと本題。言い方は雑だが、人間は割と自己をこういう人間だと定義しているのではと感じている。外発的・内発的かはとりあえず横に置いておくとして。でないと自己分析なんてできないし、やったところで矛盾したパーソナリティが浮かんでくる。恐ろしい話。
で、それについて深掘りしたくなった。
こう考えるに至った過程とか説明するの面倒なので全部端折るが、人間は「自分はこういう人間である」という定義付けに言動が引っ張られることがあるのではないだろうか。……おっと、これだとあまりにも主語がクソデカ。「私は」に書き換えた方がいい。それはそう。
命題としてぶん回したいので、とりあえず「AならばBである」の形に組み換えてみたいと思う。うーん、難しい。あまりにも抽象的すぎる。というか、しれっと対偶をとろうとするな。
それでもやるとするなら、「自身を明るい人間と定義しているならば、その人は明るい人間である」みたいなところだろうか。これで命題っぽい形式になった。この時点でこいつの真偽は謎。対偶が真ならば元の命題も真なので、とりあえず対偶とるために色々考える。
まずは逆から。「その人が明るい人間ならば、自身を明るい人間と定義する」になるはず。うーん、多分これは真。捻くれてなければ自己評価はそうなるに違いない。次。
裏。「自身を明るい人間と定義していないなら、その人は明るい人間ではない」で合ってるかな。うーん、これは怪しいライン。そいつが捻くれてなければ真のはず。わからん。保留。こいつの対偶は真だから多分こいつも真。うーん、わからん。
そして肝心の対偶。「明るい人間ではないならば、自身を明るい人間だと定義していない」になるんじゃなかろうか。単なる自己評価の話だ。真に決まっている。ということは、こいつの対偶こともとの命題は真のような気がしてくる。どうしてこうなる。
んで、ここから論理を飛躍させる。ここまで賢そうなことをやってきたような気がするが、そんなもん前置きのためのよくわからん何かである。さっきの「自身を明るい人間と定義しているならば、その人は明るい人間である」を強引に成立させるための何らかの何かだ。読み飛ばした方がいい。あっ、もう読んだ後か。
まぁ、ここから先は本当に頭おかしい論法。先に自身を明るい人間だと定義してしまえば、人間性も割と引っ張られるのではないかという本当にめちゃくちゃなアレだ。わかりやすく言い換えると自己暗示辺りか。あまりにも身も蓋もないが、意外と効果ゼロではなかったりする。
これ、外からの言葉に影響されやすい人ほど効果高そう。ド偏見だけど。
まっ、そんなわけで試してはいるが……結局のところそういうことなのである。何事にも限度はあった。それだけの話。