「I decide who I am. I'm going to be what I was born to be: a performer, who gives the people what they want.」
「自分が何者かは自分で決める。なるべくして生まれた者になる、パフォーマー、人々が欲しがっているものを与えられる人。」
この言葉が45歳の若さで亡くなったQUEENのボーカル、フレディ・マーキュリーがバンドメンバーに対して語りかけた言葉である。
何者かになりたいという男性的心理から家族とはうまくいかず、毎日バンドハウスに通う生活をしていたフレディ(本名: ファルーク・バルサラ)。そんな彼がブライアン・メイ、ロジャー・テイラーに出会い、一世を風靡したQUEENが伝説になる軌跡を描いた作品が本作品である。
この作品は一見すると華々しい英雄奇譚のように感じられるが、内容はまるで別物だった。
どんな人生にも峠があり努力次第では山頂を高くすることができる。しかし、峠というものは必ず下りがある。ただ、下った先にも必ずまた峠があられ頂点に達することができる。この繰り返しが、人間として生まれたものの宿命なのである。実に泥臭く、華やかな彼からは想像もつかないような物語だった。
この映画の見どころとして、僕はこれを推したい。
大切なのは自分が落ち目の時に一緒にいてくれる存在であること(作中では家族と表現されている)
本編はお話しした通り、フレディという一人の人生を体験するというものである。当然ながら山頂があり、谷底もあり、一世を風靡しただけありその落差もかなり大きい。普通の人なら到底耐えられない落差。
だが、そんなときに一貫して支えてくれていたのは恋人や友人の存在である。
フレディはいついかなる時でもQUEENであることにこだわり続けた。どんな時でも頭の片隅に居続けるこの心地良い存在。この存在に気づいたとき三島由紀夫の「金閣寺」との共通点を思いついた。
金閣寺は主人公にとって、偶像であり憎むべき敵のような存在であった。
ほとんど同じような存在(QUEEN=金閣寺)にもかかわらずそれぞれの主人公は、正反対のベクトルを内部に秘めているのである。これは、金閣寺の主人公は妄想し期待していたものを内に秘め続け、はたまたフレディは妄想を実現しようと必死にあがいた差なのだと思った。
さて、なぜフレディが必死にあがくことができたのか。
それは、前述した恋人や友人の存在である。
彼らに共通していることは、
否定しない(ありえないことも理解してくれる)
話を最後まで対等に聞く
上り坂でも下り坂でも一緒にいてくれる
であった。
このような存在が自分にいるのか自問してみた。
正直な話、確証はないが何人かはこのような存在が浮かんだ。
自分の性格上これからも行き当たりばったりで、思いついたらすぐ行動してしまうひどく激しい人生になりそうだ。必ず僕にも谷が訪れる。そして、自分の周りの人にもその機会は平等に訪れる。
そんな時に支える、支えてもらえるように生きようと改めて思った。
追伸: 文章変かも?