人の目が気になる。
今それ言うの?という話なんだけど、ツイッターのフォロワーがいつのまにか増えていた。フォローはされてないけどたぶんリスインされてるんだろうなと思われる通知があったり、呟きに対する質問だとかがうぇぼに入ることもあって、自分が案外いろんな人に見られていることに気付いてしまったら、何を言うのも怖くなった。それで少し呟きを控えめにしていた(あれでも)。支部を見てフォローした人は作品のイメージがあるだろうから、私が何か発言することでそのイメージを壊すようなことがあれば申し訳ないなと思って、それならば自我を出さない方がいいのかもしれないと思ったのもあった。
支部からツイッターへのリンクを外したらフォロワーがあまり増えなくなって少しだけ息がしやすくなったけど、今もやっぱり発言するのが怖いなあと思う。
とはいえ支部に籠ろうにも、あっちのフォロワーも気付いたら増えている。それに気付いてから、作品を支部に上げることについても少し迷うようになった。自己投影100%ではないものの自分の内面をずっと見つめ続けて書いてるから、創作とはいえ自分がむき出しになってる部分がすごくあって、フォロワーと閲覧数が増えれば増えるほど(基本的には無反応なのが普通であるということもあり)自分と私の国広を消費されてる感がある。ときどき、しんどくなる。見られることで消耗してしまうなら投稿しなければいいじゃん。それはそう。
自分のために書いてるものなんだから自分だけのものにしてもいいんだよね。ということに、フォロワーさんの言葉で気が付いた。その選択肢を知れたのは一種の救いだった。ただ私の場合、投稿するというひとつのゴールがあることで、ある程度人に見られても耐えられる出来になっている&ちゃんと書き上げられている自覚があるし(書きかけで放置しがち)、読んでくださった方からの反応がすごく励みになっているという側面も大いにあるので、どうしたものかな~と悩んでいる。ひたすら自分との戦いだよ。
話は変わるけど、つい先日手芸用のアカウントを消した。10年以上使っていて愛着もあったから寂しさもあるけど、ようやく肩の荷が下りた気分だった。手芸垢をやっていると、「作り方を教えて」「型紙/編み図公開して」「売って」と言われることがある。「私はあなたが時間とお金をかけて得た技術をこの一瞬で消費したいです」と直接言われるようなものだ。自分が作りたいものを自分のために作っているだけなのに、作れば作るほど自分がコンテンツ化され、消費されていく。それが喜びになる人もいるだろうけど、私にとっては苦痛だった。だから迷った末にアカウントごと消した。今のアカウントについても若干同じ感覚になりつつあるなあとうっすら感じている。
私も一オタクであり一消費者だからわかるんだけど、消費する側って楽なんだよね。大口開けて待っていれば何かが供給されるし、与えられたものを咀嚼するだけでいいから。子どもの頃からずっと何かを作って表現する人生だったけど、オタクになった時、あまりにも楽で驚いたのを覚えている。
そもそも創作者・表現者は消費されるのが宿命なんだろうな。なのに、書きたい、見てもらいたい、けど消費されたくないという割と無茶苦茶で勝手なことを考えていて、私は本当に未熟だなあと思う。達観したい。どう折り合いをつけたらいいのかなあと最近ずっと考えている。
なんてことを最近ずっと悩んでいたんだけどもう好きなようにすることにした。(完)
心の自由を失って雁字搦めになって、自由に書けるはずのツイッターでまで、まるで人のために生きてるようになるのはなんか、違うよね。と思って昔みたいにオタク全開で好きなように呟いたらすごく楽しかったのでもうこれで行こうと思う。また怖くなって黙る日が来るかもしれないけど。
作品については、私はもう一部の人にとっては既に一種のコンテンツになっているんだろうし、きっとこの苦しさが根本的に解決する日は来ないだろう。作品を公開する以上、その部分は諦めるしかない。書くこと自体は今も楽しいから、好きなように書いて、見てもらいたくなったら上げて、消したくなったら消す。作品もアカウントも。それでいいや。
あと私はすぐ自分のためではなく誰かのために生きようとする傾向にあるから、こういうところ直さんといけんなと思った。これは自分の人生だよ。