料理が楽しくて調味料が増えている。というか我が家に調味料があまりにもなさすぎてちょっと引いている。毎日味噌汁を作るだけならだしパックと味噌と野菜くらいしか要らなかったからね…。コンロ回りの油汚れとか洗い物の量とか、今までになかった面倒はすごく増えるけど、楽しい。
私は肉野菜炒めが好きで、これ本当は作ろうと思えば作れるんだろうなと思いながらも食べたいときはウーバーしてたんだけど、こないだ鶏肉とブロッコリーのレモン炒めが成功してから、自分で肉野菜炒め作ってみたい!となって、先日作った。おいしかった。しかも簡単だった。なぜ今まで作らんかったんだ。
何度も作ってちょうどいい味付けを見つけ出して、最近は鶏肉&ブロッコリーのやつと肉野菜炒めを交互に食べている。気に入ると同じものずっと食べがち。あとこのふたつは作るのが楽なので…。料理は、慣れるとそんなに大変でもなくて、むしろ楽しい。料理は実験みたいで面白いという母の言葉の意味がようやく理解できた。繁忙期が終わって余裕ができたらもうちょっと違うものも作ってみたい。
自分の性格を考えると、私はたぶん大事な人がいたら料理はちゃんと作るタイプだと思う。そこに責任か愛情があればやるというか…。でも実際には自分しかいないから、適当な食事でも何ら問題はないし、しかも積極的に生きる気があまりなかったから食べることが作業になってた。自分の命に対して責任も愛情も持てなかったんだろうね。今ようやくこうして料理を作れるようになったのは、自分で自分のことを大事にできるようになったからかもしれない。
部屋を綺麗に保ったり、毎日お風呂に入ったり、自分でごはんを作ったり、しっかり眠ったり、好きなものを楽しんだり、そういうみんなが普通にしていることって、自分を大事にするということなのかもって思う。逆に言えばそれができなくなるとちょっと危ないんだろうな。気持ちが沈む時期は正直できてない。自分を大事にしない・できないって一種の自傷行為かもしれない。
料理はいつも多めに作って次の日のために取っておくんだけど、これが毎回楽しみで仕方ない。明日もこれ食べられるんだ!って思う。今度はこれを作ってみようっていう楽しみも生まれた。未来を楽しみにできる生活ってこんなにきらきらしてるんだと初めて知った。本当に人間何年目?
”未来を楽しみにする”というのも、私にとっては国広に出会ってから知ったことで、なんだろうな、いっそ生まれ直したに近い感覚がある。まだ国広を推していた頃(?)はグッズとかを予約することで数か月後までの生きる理由を無理矢理作っていたんだけど、突如夢女になって自分の中に国広が住むようになってからは、国広を通して自分を愛せるようになったからか、理由を作り出さなくても明日を迎えるのが楽しみになった。ありがたいことだね。
人間って生まれる意味も生きる意味もないけど、その意味を見出せる存在に出会えてよかったなあと思う。いつもありがとう国広、すきだよ。