本屋の話し

noi7025
·

買い物が苦手である。

行き慣れてるはずの最寄りのスーパーとかでもなんだか緊張するし、まず自分の買うものが他者に丸見えなのもちょっと嫌だ。セルフレジ行けって話かもしれないが、あそこで何かあると強制的に店員さん呼ばなきゃいけないのが怖くてなかなか行けない。

自分の買ったものからこの人何歳でどんな生活をしていてどんな気分でここに来たんだろうと物語になるのがちょっと嫌なのだ。現実は店員も、近くを歩いてる別のお客さんも、そんなことを考えている暇はないと思うし自意識過剰というか、周りの人間そこまでお前に興味ねぇよという話だと思うが。

どんな店だろうと長く売り場をフラフラするのが嫌なのだ。あの自分がどこに行けばいいのかわからなくなる感じが嫌なのだ。初めて来た場所でマップアプリを見ながらきょろきょろしている気分になる。

とにもかくにも私は買い物が嫌いなのだ。そんな私が、唯一とくに目的を持たずに店内に入り、なにか買ったり買わなかったりが簡単に出来て、長くフラフラしても平気なのが本屋である。

インターネットとかいうメチャクチャな世界を知る前の私が暇なとき遊び場感覚で出入りしていたのが家から徒歩3分にあった本屋である。ちなみにもっと前は公園が遊び場だったのが、小学校とかいう合法的に本読み放題な場所がある(そんなとんでもない場所の名前は図書室という)世界を知ったためそこに入り浸るようになり、それからさらに色々あって(この話はまた今度、機会があれば)いわゆるサブカル文化を知ったのが本屋だった。

当時アニメーションというものを金曜の夜にやってるやつと日曜の朝にやってるやつと2チャンネル(テレビの話である)でやってるやつしか知らなかった私が深夜アニメというものを知ったのもここだ。知った時は都市伝説かなにかだと思い信じられなかった。アニメが?毎日?見れる?どういうこと?しかもいっぱいある?

インターネットに触れられなかった(今ではこの時期に触れなくて本当に良かったと思っている)私がサブカル文化の情報収集の場として本屋を活用していた。一週間に一度は特に目当ての本がなくても行っていた。その頃の私の情報収集能力はすさまじくテレビの番組表と本屋での情報を元にそのクールのだいたいのアニメの情報が頭に入っていた。むしろインターネットのそれよりかは余程情報の正確性は高かった気がする。あの頃の自分の勤勉さを取り戻したい。

ただこの本屋に別に店員さんと顔見知りになったとかそんなエピソードはない。昔ながらの本屋とかいうわけでもなく、普通に全国チェーンの店だった。

そんなわけで暇が合ったらとりあえず本屋に行っていた私は、本屋だけは目的もなくフラっと入って時間をつぶせる場になった。当時はある意味で目的はあったのかもしれないが、暇だからとりあえず公園に遊びに行こうみたいな感覚だっただろう。そもそも本とは人生に必須なものではない。だから本屋とは私にとって目的がなく入ってもいい場ということになるのだ。

だからこそ、本屋で私が選ぶ本から「私」という物語を夢想されたとしても気にならない。むしろどうぞしてくださいと思っている。私がSNSを自分の「特に目的もなくはっきりとした意味もない」趣味をさらけ出す場として使っているのも同じ理由だろう。まぁその必要のない趣味と必須な日常生活の境界線はかぎりなく曖昧で、不確かで、混ざりやすいものであり、混ざっていた方がある意味健全と言えるかもしれないが。「リア友」と「仲の良いフォロワー」の差のような。

店員のおすすめコーナーをうろつき、そんなに興味のない分野の専門誌コーナーも見てしまう。本なら、別に買うつもりがなくても売り場を見たり、手に取ってとりあえずページを捲ったりしてもよいと私は判断しているらしい。

本なんて、電子で読むのが一般的になりはじめているし、紙の本も通販で簡単に買える。それでも発売日以降に本屋に行って目当てのそれを買いに行くのは、昔より自由な時間が減っている私が「本屋に行くため」の免罪符なのかもしれない。

目的のないものを、心地の良い物だと思っている割に、目的をその免罪符にせずにはいられない。変な思考回路である。罰せられたいのか、許されたいのか、それとも罰せられて赦されたいのか。そんな思考の本棚を、今日もフラフラしている。

@noi7025
gerohakihaki