2021年4月に書いたものをほぼそのまま移動。
私は私の落とし前をつけることしかできない
ちょうど暇してたし、ネットでネタバレくらうのもなんだか癪だったのでシンエヴァを公開日に観に行った。平日で思ったより空いてたし。
優しい作品だなぁと思った。直前にTV版と旧劇場版を勢いだけで見たというのも大きいとは思うが、第一印象はただ優しいということだった。ある意味、オチそのもののインパクトはないといえばないのだがそれ以上に丁寧で優しく、そして厳しい。淡い寂しさと気持ちの良い切なさ、そんなものが心の中でじわじわと広がっていくような気持ちだった。そこまでこのシリーズと付き合いのない私ですらこうなっているのに、本当にエヴァシリーズへの想いが大きい方にいたってはもはや私が気遣うのもおこがましいと思うが、お疲れ様ですと声を掛けたい。
そして、何よりも衝撃を受けたのがタイトルにもあるように渚カヲルだった。とても嫌な言い方をすると「渚カヲルってそっち側に行けるんだな」と思った。そっち側がどっち側かというと、物語において救済される側のことである。そもそも渚カヲルの出番がまず短いのでわざわざ説明しなくてもわかると思うが、終盤ゲンドウが下車した後から始まる碇シンジとアスカ、カヲル、レイの会話のシーン。
正直言ってアスカ、レイはそういうシーン入れてくるよなとは予告で初号機に乗るシンジの目を見た時点でだいたい想像はついた。この作品でエヴァを本当に終わらせる気なら、そこははっきりさせておかなければならない、同じ理由でゲンドウのシーンも内容はともかく存在自体の予想はつく。
だが私は渚カヲルについては全くもって予想していなかったのだ。いや突然の加持さん登場からの渚司令を予想していた人は少ない(え、ていうかいるんですか?)と思うが、そこじゃなくてね。さっきから嫌な言い方ばかりしているがエヴァンゲリオンを終わらせるうえで渚カヲルの救済って必要なんだな、てか可能だったんだなとすら思った。
普通に考えれば渚カヲルもエヴァのパイロットだし、メタな話をすると普通にメインキャラだ。じゃあ何故、私は渚カヲルを勝手に‘そっち側’には行けないと思い込んでいたのか。
答えは簡単だ。私が渚カヲルに『渚カヲル』という役を無意識に押し付けて期待していたからである。
渚カヲルは謎が多くて、色白で、使徒で、顔が綺麗で、ミステリアスで、いつでも物語の外側から微笑んでいて、そして碇シンジが好きなんだなと。
だって彼は『渚カヲル』だから。
勝手に、彼は物語の中には入れないと思っていた。期待して、押し付けて、身勝手に憐れんでさえいた。
というか、私が言うとおこがましく聞こえるかもしれないが恐らく彼本人もそう思っていた。だから彼は「あとは僕が引き継ぐよ」と言って出てくるわけである。(カヲル君の一人称って漢字の僕であってんのかな……)
だが別にそうじゃなかった、そうじゃなかったのだ。渚カヲルは別に碇シンジを幸せにする必要はなかったし、碇シンジも渚カヲルに幸せにしてもらわなければいけないわけではなかった。渚カヲルは碇シンジを幸せにしなくても幸せになれるしなっていい、なってよかったのだ。
碇シンジが幸せになれてもなれなくても、渚カヲルに何も返さなかったのは渚カヲルが碇シンジへの愛に見返りを求めていなかったからである。いや求めていないと思い込んでいたからである。だからこそ、碇シンジは渚カヲルを幸せにしたいとすら思わなかった。碇シンジにとって渚カヲルは『渚カヲル』なら誰でもよかったのだ。だが碇シンジは渚カヲルを憐れんではいなかった。それに対する落とし前のつけ方があの会話だった。
ただあなたに会いたいのならば、話したいのならば、手を差し出して。「仲良くなるためのおまじない」をすればそれだけでいいのである。
渚カヲルの運命を仕組んでいたのはあの世界そのものであり、ゼーレであり、ネルフであり、碇ゲンドウであり、碇シンジであり、渚カヲル本人でもあり、そしてもう一人、私だった。
あのシャッターが閉まった瞬間、『渚カヲル』の役割は終わった。その役はもうエヴァンゲリオンという物語に必要なくなった。でも、彼はもうあの向こう側へ歩いて行ける。好きな方向へ歩いて行けるのだ。碇シンジの方を、振り向かずに。私の方を、振り向かずに。
私は傲慢だから少し寂しいけど、それもいいよね。