「とくしまマラソン2026」の前日だ。とくしまマラソンに参加するのは昨年に続いて2回目。フルマラソン自体は4回目になる。
とくしまマラソンのようなマラソン大会では、コースの沿道でランナーを応援してくれる方々がいる。その一部は大会公式のプログラムで、ジャズバンドや応援団、チアリーディングなどから、ご当地にちなんだ演目まで、いくつものスポットで色々な団体が応援してくれている。一方、そのような公式プログラムとは無関係に、近所の人がふらっと見に来て応援してくれるということもたくさんある。
応援してもらえると、素直に嬉しいし元気が出る。客観的には当たり前だと思われるかもしれないが、このことをわざわざ書いたのは、もし自分が応援する側だったら、ランナーが応援されて嬉しいかどうかは必ずしも当たり前に分かることではないと思うからだ。「却って邪魔だったりしないのかなぁ」などと余計なことが頭をよぎってしまいそうだ。そんなことはなく、少なくとも僕は嬉しいということを表明したい。
印象に残っている応援もいくつかある。福知山マラソンでは、山間を縫う川沿いの道がコースとなっていたが、その沿道の民家のご家族と思われる方たちが庭先から出て来られていた。90歳代くらいかというおばあさんがパラソルの下で椅子に座り、その娘さんくらいの年齢の方に付き添われながら片手を前に出して応援してくれていて心が軽くなった。また、昨年のとくしまマラソンでは沿道に立つマンションから小さい子どもとそのご家族が手を振ってくれていて、思わずこちらも手を振り返した。
沿道の応援者の中には、ランナー全体ではなく、特定の知人とか、何かのグループの仲間とかを応援しにきている方もいる。ランナーのニックネームを書いたお手製の文字入りのうちわを持ったり、おそろいの応援ジャンパーを着たりしてお目当てのランナーが来るのを待っているのですぐに分かる。実は、自分には無関係なこういう方の応援を見ることでも少し気持ちが軽くなる。なんというか、何千人と一緒に走っているとはいえマラソンを走るのは孤独な行為だ。同時に走っているランナーも、基本的には知らない人ばかりだし、そのペースや苦しさもさまざまだ。しかし、自分と似たようなタイムで走るこの集団の近くにいるであろう誰かを応援しに来ている人を見ると、そのランナーがより実体を持ってきて、孤独感が薄れるような感じがするのだ。うまく説明できているか分からないが……。
応援されるのは嬉しい一方、実は応援される側として「うまく」できているかに関しては自信がない。僕としては、「あなたの声援のおかげで元気になってスピードアップしました!」とばかりに速度を速めて爽やかに通過してみたいところだが、ペース配分や体力温存の問題がありそれは難しい。それに、応援が見えてから通過して見えなくなるまでには意外に時間がかかるものだ。十数秒から数十秒あるその時間のうち、どこで反応してどこで反応をやめるのが良いのか、見極めも難しい。それに、応援する方もされる方も普通は複数いる(1グループでなくても、漠然と何人かが同時にやってくることになる)ので、自分ばかり反応しているのも何か違う気がする。声援へのちょうどいい感謝の仕方というのが意外に難しいのだ。(自意識過剰とのご批判は甘んじて受ける。)この点、ベテランっぽい人は拳を掲げたり軽く手を振ったりして「ありがとう!」とうまく感じ良く返してすごい。せっかく応援されるのだから、僕もあまり遠慮せずに応援を嬉しく受け止めて、楽しんでいることが伝わるように返せたらいいなと思う。
市民マラソン大会は公道の交通規制を伴うなど地域の負担も決して小さくない。地域振興の意味で開催されている大会も、大会増加に伴う参加者不足などで大きな赤字となり中止となるところも出てきている。そんな中でも開催を続けてくれていることに感謝しつつ、沿道の応援も楽しみに走ってきたい。