日記が書きたいという欲求を、幼少期からずっと抱えている。特段理由があるわけではないが、数年認めた日記を、本棚にずらりと並べたらさぞ壮観だろうと思う。私がゲームの主人公であれば、いい情報が出てくるに違いないと腕まくりもする。そんな景色に憧れるし、ちいさい話をするならば、毎日日記を書いて眠るんだよね、と友人に鼻高々に語りたい気もする。
自分がありえないほど忘れっぽいので、たまに読み返せるのもいいと思う。友人曰く、私は生き急ぐきらいがあるらしいので、日々の止まり木としてもきっといいだろう。
ただ悲しいかな、ひとつ欠点がある。私は致命的に、何かを習慣化することが苦手なのだ。
三つ子の魂百までとは言ったもので、かつて夏休みの課題が出せなかった私は、未だに31日の夜に暮らしている。
習慣化において、義務感が苦手なのか? と考えたこともあるけれど、それは好きなものでも変わりがない。
ゲームだろうが絵だろうが、とにかく毎日同じことをすることができない。練習も生活も趣味もダメだ。1日の食事の時間や量すら揃えられない(食事という文化をすっかり忘れて、何も食べない日や、あるいは一日中何かを口に放り込んでいる日もあるくらいだ)し、風呂も歯磨きのタイミングもめちゃくちゃだ。
たぶん日常生活において、1日8時間以上働くという点しか守れていないだろう。あと大量のツイートをすること。はしくれとはいえ文明人にあるまじき程に、気ままに生きすぎていると思う。ルーティーンの対義語に私が載る日も近い。
何かを習慣化することに長けている人は、自分がどうやったら続くのか、という自身との対話が上手い気がする。自分の中での条件をうまく操作し、意欲や体力と擦り合わせるのが上手い。凄いスキルだ。
私はそれがうまくいかない。単純に飽きるし、人生の真実味に直面してしまうからだ。
じゃあ、そこさえクリア出来れば可能なのか? たぶん無理だろう。普通に、まとまった文章を書くことが恥ずかしい気がする。
私は親に、絵すらろくに見せていないような人間なのだが、文章の恥ずかしさってもう、なんというか、絵と比べ物にならない。文字の勉強をしたことがないからだろうか? 人の文章を読んでいると気にならないのに、自意識が邪魔をする。
ちなみにツイートは短いし、誰も見ていないと思い込んでいるので問題がない。SNSとしてではなく、壁として活用しているからだ。
では日記にだけ自意識が発動するのはなぜか?
当たり前の話だが、物語やゲームに登場する日記は必ず「誰かに読まれるためのもの」である。目的のための舞台装置だからだ。
自分は舞台装置以外の日記を読んだことがなく、故にサンプルがない。だから日記を書こうと思うたび、それを読む誰かを意識した文体にしてしまう。そこに自意識が出てくる。すごく恥ずかしい。壁だと思い込めない。これが、いつか誰かが読むための行為なのだと錯覚してしまう。
いやどうなんだ、日記を書くときに、他の誰かを意識しない人はこの世にいるんだろうか? 私が「自分のためだけの努力」が苦手すぎるだけだろうか? 難しい。本当に自意識の奴隷すぎる。
そう、つまるところそれを逆手にとって、対外的に日記を書いて仕舞えば解決なのでは? と思った次第なのだが、もう既にだいぶん恥じているのでダメかもしれない。あまりに浅慮すぎる。そもそもこれは日記なのか? やっぱり定義がわからなくなる。
日記って難しい。紙面上くらい、自分の人生が飼い慣らせたらいいのにと思う。目的がふわっとしているからダメなんだろうな。1ヶ月先に死ぬと言われたら書ける気がする。わからないが……
まあ正直、1日のツイートを繋ぎ合わせれば、たぶん十分な日記になる。でもツイートはポストイットみたいな消耗品で、ノートでないので却下したい。つまり私は、背表紙のついた日記がいいのだ。
追記
これを何度も推敲していて気付いたが、読み返せることがそもそもダメなんじゃないだろうか?(だとしたら本当に日記が向いていないのだが……)
ツイートやTRPGの感想をポストイットだと思っているのは、一時の感情の発露を書き、つぶやいた後はそのまま忘れるか、読み返さないことが多いからかもしれない。ツイッターに課金していないからポストの編集もできないし、ふせったーはそこまでわざわざ読み返さないからだ。
そういえば絵を一生直す癖を辞めるのも随分かかったように思う。
すぐ読み返さないか直さずやれば、意外と日記は続くのかもしれない。