「負けたくないけど実は認めてる」、THE 虎牙道を表現するキャラクターソングとしての面が強い場合において小松昌平扮する牙崎漣が背中を向けつつも目線を投げるのは理にかなってると思うけど、実際ファンコンで本人がやってるの見たら(これどんな気持ちでやってんねやろ……)と思った
作中世界の作曲陣が「こういう3人でこういうコンセプトね〜」と思って強く尊き獣たちを提出したとして、3人とも歌詞見てこの歌詞私の事だ……(テンプレ)と思ったり、振付師に提示された振付を見てこの振り付けってこういう意図か……?と思ったりしたんだろうか
強く尊き獣たちで漣が毎回新たに「負けたくないけど実は認めてる」と思って表現してるとは思ってないから(非効率なので)、『「負けたくないけど実は認めてる」の時の振り付け』を全体を通した流れで認識してるとして、「なんでオレ様はチビに背向けて睨む振り付けやってんだ?」と冷静に考えてしまったりしないのかな
まあぶっちゃけ1曲目2曲目は自己紹介ソングというかキャラソンなので、そういうもんだよというのは百も承知なんだけど、その上でパフォーマンスしてるってことはその余地まで考える自由が与えられてるってことだから、余すことなく楽しみたくてこういう事を考えてる
ただまあ強く尊き獣たちで「牙崎漣という人が何故か大河タケルという人に並々ならぬ何かを感じているらしい」という表現を入れ且つ受け入れられたことで、ROLでの手重ねという幅を入れることが出来たと考えると辻褄が合う気がする。別に漣はこうですと言われたら素直にどんな振り付けもやると思うから
声優ライブという下地がない状態で「漣ってなんで2人から目を逸らしたり素直に手を重ねないの?」て言われたら、多分それは漣が出来ないからじゃなくウケるからかなと思う。なんで?から始まってやっぱこれよ!まで持っていけたら一つの武器になるから
つまり私は牙崎漣の感情を売り物にしてるってこと
て言ったら漣は怒るから体裁として「漣らしさを表現するためだよ」て本人には伝えてるかもしれない。タケルは(コイツ用に振り付けをアレンジしてるんだな)と思ってそうだけど、円城寺さんは(こういう商売だからキャラクター付けの一環かもしれない)と気づいてそうな気がしないでもない
アイドルコンテンツ、今はもうアイマスしか触ってないけど、こういう事を考える度に「私はこの子たちの人生を切り売りして生きてるんだな」て思う。タケルは世間様に弟妹探してますとは言ってないだろうけど、引退の件で同情されたりしてるかもしれない。それは円城寺さんも同様に
悠介の怪我もそうだけど、人目のある場所で挫折してしまった人間の宿命というか。私も人生を知った上で感情を楽しむ内の一人ではあるから、根底にある底意地の悪さを自覚しながら楽しんでる。所謂可哀想は可愛いみたいな。ごめんねと思いながらやってる
これが水を差すことを言う、に当てはまるのかは分からない。自覚して尚止められない醜悪な好意ってあるから。そもそも一方通行の愛って恐怖でしかないし。私のワガママに付き合わせてごめんという気持ちを自己完結させる為に私のワガママに付き合ってくれる二次創作を描いているのかもしれないな