これは去年の八月頃にメモに残した文章
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夜桜温泉ライブは、私の中で総合値で一番評価が高いイベントシナリオに位置している。
このシナリオは、読後感が独特だ。物悲しさと温かさが両立していて、タケルの過去と壮一郎の過去を軸に現在の彼らの周囲が描かれている。或いは一纏めに優しい物語とすることもできるだろうが、その優しさを手にする過程で彼らは苦い経験をその身に刻んでいる。
経験を和らげるためにとる手段、ないしはとらない手段の対比と、そこにあったもの、今だからそこにあるものの愛おしさが両立している。このシナリオを読むと、温かさに触れながら心臓の辺りがひんやりと冷たさを帯びていくような気がしてならない。
タケルと壮一郎の違いは、当人の中である程度納得がいっているかどうかだ。その点で壮一郎はタケルが歩む未来に生きていると言える。壮一郎の納得に、まだタケルは自分を重ねることができない。他者の気遣いに俯瞰した視点を持って「ありがとう」と言えるのは、まだ先の話になる。なぜなら彼はまだ自身の問題を俯瞰できていないからである。
今のタケルの傍には、相談相手も競争相手もいる。この事を、彼自身よく理解していて有難いことだと感謝している。だが、彼にとって庇護対象がいないのもまた事実であり、その焦がれる思いは他の何者でも埋められないのだ。
或いはこれは他のアイドルにも言えることであり、さらに言えば他人と関係を持つ人間の多くが抱えるものである。タケルの問題は誰もが共感し得るが、その共感を持ってしても彼の穴を埋めるに能わず、それ自体を彼も望んでいないようだった。彼にとっての最優先事項は変わらず弟妹その人にあり、弟妹に関係する何かに向けてひたむきに努力することが、彼らと生き別れてからの彼のアイデンティティである。
桜を見ると、タケルは弟妹を思い出す。いつかのあたたかい記憶が春風と共に流れ込む。その時、彼の周りには何もないのだ。桜が見せる過去だけが彼の真実で、傍に立つ誰かは霞んで見えなくなってしまうのだ。
桜を見ると、私はタケルを思い出す。桜が、過去を見る彼の姿を見せるから。