病気で余命宣告をされたとある方の文章を読み耽り、反省しながら共感した。
中学生の時に、いじめや自殺はいけないことです!みたいな啓蒙ビデオを見せられた。激しいいじめにあった男の子が自殺した悲劇のお話だった。20数年経った今でもしっかりと覚えているのだが、感想文を書きなさいと言われて
「自殺した人の意思だって尊重されるべきだ」
と書いて提出した。(逆張りではない)
その頃初めて自覚したのかもしれないが、わたしは自分の人生は自分で続けようが終わらせようが、好きに選んだらいいと思っている。
もうぐうの音も出ない人生になったら終わらせちゃってもいいよと思う。
(別に友達とかが死んでもいいとは思ってない。仲のいい人が死んだらめちゃくちゃ悲しいし、落ち込むし、何か出来ることはなかったかと後悔すると思うので、できたら死なないで欲しい)
だから、常に横に死がいる。
嫌われ松子の一生という映画を見た時、
「あぁ、わたしってこうやって死んでいくんだな」
と妙に納得した。
わたしは自分を見誤ってない。卑下している訳ではなくて、実際にみんなが思うよりも何も出来なくてズボラで、意地も口も悪く、身勝手で、気力がなく、頭の悪い、ダメ人間で、108つの煩悩と7つの大罪の権化のような人間である。
そう見えないようにとってもがんばっている。
だから誰かと結婚したり、子供を持ったり、子供の運動会で泣いたり、孫の顔を見たり、そういうことは自分の人生には起こらなくて、一人で死ぬんだろうと思うし、歳をとるにつれてますます現実味を帯びてくる。
孤独は、怖い。死よりも。
だから松子人生が確定したら、自分で終わらせてしまおうと思っている。
これは、わたしの人生を共に負う覚悟がない人にはどうやったってとやかく言わせない。
権利がないのだ。
だって何言ったってあなたには何も出来ないし、わたしの心からの愛への渇望や孤独は、"その"人でしか満たせないからだ。
誤解のないように言うと、これは病んでいるとかではなくて、わたしの昔からの死生観だ。
冒頭の、余命宣告をされた方の話に戻る。
その方は、ごはんをおいしいと思うことが幸せ、普通の毎日が続いたらいいのにと、繰り返し繰り返し書かれていた。
亡くなった身内からは間際に「死ぬのが怖い」や弱音など聞かなかったけれど、そういえば癌で他界した父は診断を受けた際「家のローンもやっと返して、これから沢山旅行して遊ぼうと思ってたのになぁ」と言った。
明日が無いかもしれないと毎晩寝る前に思うことが、どんなに孤独で辛いことか、死生観は変わらないが、わたしの横にある死はオセアニアくらい遠いのかもしれない。
メメントモリという言葉があるように、死を意識して生きることは、本当に大切なものを見極め、普通の毎日を大切にすることだ。
忘れるといつも強欲になって、思い通りにならない事に腹を立ててしまう。
奇跡はもう起きている。
この奇跡を明日終わらせるも、永遠にするも、この1日をどうするかなのだ。
わたしは今日、大切な人に我儘を言って心配させ、素っ気なくおやすみを言ったことを思い返し
「いつもありがとう。大好きだよ。おやすみ。」と送り直した。