〈わたしの名前〉でわたしを呼んで|『ミツバチと私』

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「なんて呼べばいいの?」

「呼ばないでほしい」


映画『ミツバチと私』を観た。

まだこの映画を観ていない人は、この文章を読む前に、できるだけ何も調べずに映画を観に行ってほしい。あなたに何らかの偏見があるのなら、偏見がある状態で観るべき映画だと思うから。


「わたしがわたしである」というだけで、そのこと自体が問題にされるという経験をしたことがあるだろうか。

家族や周囲の人々や社会などのような大きな存在が、"わたし"を取り上げ、"わたし"を分析して、"わたし"の在り方を疑問視し、"わたし"という問題について何らかの「解答」を用意し始める…。そのような地獄を経験したことがあるだろうか。

自分のことを心配してくれる他者がいるとき、その人のことを信頼して、率直に自分の本心を打ち明けたら、なぜか「あなたは混乱している」と言われた経験はあるだろうか。

その他者は、また別の他者に「わたし」の話をする。

「あの子が○○だって」「あいつは○○らしい」「そんなばかな」「○○って本当にいるんだね」「ちゃんと話した方がいい」「あの子は冷静になるべきだ」「ねえ、あの子って○○なんでしょ?」「まあ前からそんな感じしたよね」「あの子って○○だもんね」「○○って××××なんでしょ?大丈夫なの?」「親御さんは心配だよね」「でも自分のことでしょ?自分で何とかしないと」「いつか治るでしょ」

それらの声は遠くの方から自分の耳に入り込んでくる。その小さな声に怯えて、耳をふさぎ続けて暮らした経験はあるだろうか。

あなたが8歳の女の子だとして、あなたが16歳の男の子だとして、そんな経験に耐えられるだろうか。


「恥」という言葉が印象的に登場するトランス女性の物語と言う点で、作風は全然違うけれど『ミツバチと私』は『彼は私の中の少女を犯し尽くした - HFTGOOM』と同じリアリティを共有している。

『彼は私の中の少女を犯し尽くした - HFTGOOM』において主人公は「恥」によって周囲から孤立するようになる。『ミツバチと私』に登場するルルデスという人物は「子どもが自分を恥じるようなことがあってはならない」と力強く言う。『ミツバチ~』の方はそのものずばり「恥」というタイトルの彫刻作品を小道具として設置してさえいる。


「恥」がマイノリティを殺す、とわたしは常々思っている。

マイノリティ(…というか、社会が勝手に用意した属性に振り分けられない独自の自己を持つ人々)がなぜ孤立するのかと言えば、それは「私は○○という"珍しい"属性をもっています」という開示には大きなリスクが伴うからだ。(リスクって何? という人へ→差別や暴力のことです。)

しかし他者と関わるためには自己開示が不可欠である。それは信頼の担保となるからだ。あなたを信頼してわたしのことを打ち明けます。だからわたしを信頼してください…。

他者と関わるうえで、自分にとって致命的なリスクを負いたくないが、相手との信頼関係は築きたい。その葛藤のはざまで、人は本心を隠したり、自分に嘘をついて生きるようになる。

自分に嘘をつく人生は自分に対する恥を生む。そして、恥が自己開示をより阻害する。自分を素直に表現できなくなった人は他者との関りに苦痛を抱くようになり、それが孤立を生む…。

…途中から自分の話をしているようで辛くなってきたけれども、ともかく、現代ではLGBTQ+を含むありとあらゆる人々にまつわる物語が作られ、その中で「恥」と「孤立」の問題がたびたび語られている。これはとても重要なことだと思う。


『ミツバチと私』では、トランス女性が抱える恥と孤立の問題を解決できる人物として、ルルデスとニコという2人の人物が登場する。

ルルデスは養蜂や医療に携わる人物で、"普通の社会"なるものから一定の距離を置いている、いわゆる「変人」のレッテルを張られた人物である。彼女は「変人」であるからこそ、"普通の社会"から疎外されつつある8歳の主人公に対し、年長者として強引にリードしながらも虚心坦懐な傾聴の姿勢を見せることができる。

ニコは——彼女の存在はあまりに神秘的すぎる気もするが——無垢さと純粋さによって主人公の在り方をありのまま受け入れる。自分が「女の子」であると明確に認識しはじめたばかりの主人公にとって、ニコの存在はどれほど救いになっただろうか。「私の学校には女性器のある男の子がいるよ」と何の気なしに言ったり、男女用でデザインの違う水着を交換し合ったり…。このような友人をもつことは、性的少数者にとってこの上ない僥倖だろう。

ルルデスとニコの2人は、主人公にとっての安心できる場所そのものでもある。この2人の前で主人公は恥を感じる必要が無いのだ。

ルルデスは、「死んで生まれ変わったら女の子になれるかな」と、絶望を含んだ口調でつぶやく主人公に対し、こう返答する。

「死ななくてもいい。あなたはすでに女の子だから。」

主人公の性自認を、彼女の肉親だからといって他者に会話の弾みで口外してしまったのは少しだけ軽率に感じたけれど、主人公に理解を示そうとしない主人公の家族たちに対し、「子どもが自らを恥じるようなことがあってはならない」と力強く言い放ったルルデスの姿勢は、この映画を観たあらゆる人々に勇気を与えたに違いない。わたしはルルデスのようになりたい。そして、ルルデスのような人に出会いたい。


物語のクライマックス、主人公は親族のパーティーを抜け出した。

主人公が失踪したことに気付いた親族たちは、必死になって彼女を探した。いや、親族たちが探していたのは彼女ではなく、アイトールという名前の男の子だった。だから主人公は返事をしなかった。

この場面は、悲痛であると同時に痛快でもある。言葉を選ばずにこの場面について語ることを許してほしいが——自ら死を選ぼうとしたことがある人間として言わせてもらえば、自らを苦しめた人々が、自らの死によって苦しんでいる様を見るというのはある種の究極的な願望成就でもある。アイトールの名前を叫ぶ親族たちは、結局のところ「彼」が死ぬまで、その存在そのものを尊重することはできなかった。


キリスト教に疎いわたしには「洗礼」がどのような意味を持つか感覚的に理解することは難しい。だが、この映画のクライマックスで主人公は自らに洗礼を施したのだ、と考えるとそれは腑に落ちる。

アイトールと呼ばれることを強烈に否定し、ココと呼ばれることにも納得がいっていなかった8歳の少女は、自分には名前がないと考え、誰にも自分の名前を呼ばないでほしいとさえ願った。

それでもルルデスは、「名前のない者は存在しない」「あなたは私の目の前にいるよ」と語って8歳の少女をこの世界に引き留めた。「あなたの名前は自分で決めなさい」

8歳の少女が選んだのは、教会に祀られている聖人の女性の名だった。宗教やそれにまつわる因習は、8歳の少女にとっては自らを抑圧する見えない鎖でもあり、しかし同時に、自らのアイデンティティを仮託しうる重要なモチーフでもあった。

宗教とLGBTQ+の関係はあまりにこじれていて、根深い。しかしこの映画は、ルルデスやニコに表象される「虚心坦懐さ」を宗教に対しても向けようとする。自らをルシアと名乗ることに決めた8歳の少女は、極めて無垢で偏向の無いまなざしで「宗教」なるものを見ていた。


本作を観ていてフレッシュに感じた要素のひとつが、トランスジェンダーが3人以上のきょうだいの中でどのような位置にあり、どのような経験をするのかということを描いた点だ。

作中に登場する3きょうだいのうち、姉は母親に、兄は父親に愛着を抱き、懐いている様子が描かれる。

末っ子で、男の子として生まれたけれど女の子でありたい主人公は、父親に対しては、身体を接触させるスキンシップを拒むほどには心理的に距離を置き、将来彼と似たように育っていくであろう自分を受け入れられずにいる。また母親に対しても心を開き切ることができず、あまり言うことを聞かずにいる。

これは別にトランスジェンダーの子がいる親子関係に特有の光景というわけではないと思われるが、しかし、このように家族の中で自身の「位置」を決めかねている主人公の様子は、物語開始時点では自身の性自認を言語化さえできていなかった主人公の心の不安定さがそのまま表れているようで、少し痛ましかった。

親族たちが〈死んだ名前〉で主人公のことを呼ぶ中、最初に彼女を〈彼女の望む名前〉で呼んだのは、3きょうだいの兄だった。同じベッドで眠り、いたずらを幇助し合い、秘密を共有した兄は、主人公が周囲の無理解により傷つけられてしまうその瞬間を目撃した人物でもあった。

「ルシア!」と叫ぶ兄の姿は、本作で最も感動的な場面だと言える。しかしそれは、それが感動的になってしまうという時点で悲劇だ。ただルシアは、ルシアと呼ばれたかっただけ。わたしを〈わたしの名前〉で呼んでほしかっただけなのに。


『ミツバチと私』は、2018年にバスク地方で実際に起きた、16歳のトランスジェンダーの男の子が自殺したことが構想のきっかけとなったらしい。

本作が多くの人の目に留まり、その中の何人かでもいいから、ただ目の前の人をありのまま受け入れるという姿勢を持てるようになってほしいと願う。

本作のエンディングはLourdes Iriondoの"Gaua"で締めくくられる。(エンドロールによると、ルルデスの綴りもLourdesらしいので、彼女からとったのでしょう)


@norinkakusen
web上の全てのテキストは本質的に遺言だと思う。