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コラム フォロー機能はつかえない。

notepad_sencha
·
公開:2026/3/31

フォロー機能を批判しているわけではない。

私はフォロー機能を使えない、という話です。

何度かチャレンジしてみたことはあるんです。なんでかな、って思うんですけど。あれって、私にとっては、使い方はなんであれ、「相手を縛るもの」だからなんですよ。

相手を縛るし、自分も縛ります。


日々の中で、私が、一度に会話できるのは普段せいぜい2、3人でしょうか。

一日に会う人の数、軽く挨拶したりする人は5人くらいだと思います。毎日、そんな感じだから、ネットでも同じ環境を作ろうと、私は一応手入れをしていました。

庭なんて、手入れしないと、猫のフンだらけ。セイタカワアダチソウ(夏に2mを超える雑草)だらけ、虻だらけ、さらにマダニの温床ですから、命に関わる。そういうわけで、手入れをしないと、とても足を踏み入れられなくなります。

ゆっくり花を愛でることも、野鳥の訪問を楽しむことも、出来ません。

私は、夏の前に手入れをサボったら、一度前も見えない雑草の森になっていたことがあります。


というわけで、何もしないでいると、ローカルタイムラインなんて見れないでしょう。ユーザー数が約4000人くらい(例 mivatterの場合)、いるわけですから。私には、とても見れないです。

私は、多分地元の公園に15人位入っているだけで、何じゃこりゃ、と混乱しますから。100人程度だと、通勤ラッシュの電車と同じです。人々が密着していて、不快さを我慢しなければならなくて、苛々しながら、常に互いを牽制し合う。考えただけで、吐き気がします。病気にならないのかな。って、思います。

私はあんなにしんどいことを、毎日好んでしたくはないですから、やらないです。


そういうわけで、手入れを大切にしていました。他人を縛ることなく、また自分も縛らずに、ミスキーを使うには、それが必須だったからです。

確かに手間です。その時々、話している人だけを、タイムラインに表示させるのは。人が加われば、またスマホを操作しないといけませんから。

たくさんの人が街を歩いていても、人が平常心でいられるのは、いらない情報はちゃんと取り込まない機能が、人の体についているからです。

沢山の声の中から、無意識に重要なものだけを器用に選別できる。

ネットをしていて、「目が滑る」というのはまさにそれですね。無意識で処理できない量の情報を、視覚から取り込まないように、体がちゃんと機能しているからです。ただ、子供の場合は少し分かりません。違うのではないかと思います。私は専門家ではないので、詳しくありません。


まあ、それだけの情報量、人の声がある。人間の処理できる量を超えています。

フォロワーというラベルを貼って、目印をつけておけばなんとかなっている。それか、喧騒の中から気に入ったユーザーを探して、リストアップしてそれだけを見る。なんてやり方も、ありますよね。

それって使いようによっては、ストーカーか、常にいる、取り巻きのようなものとしか、私は思えないんですが。でも上手につかえる人はいるんでしょう。でも、実際に親しくしている人の胸に、『私の知人』なんて名札は貼っていないですから、可視化された場合、かなり強い縛りになるんじゃないかと思います。そして意識を縛るということは、相応の苦痛を伴うだろうな。とは、思いますけれど。

私は、されたことはあっても、誰かを監視したことはないので、しかも不快でしたから、ずっと避けています。そんなに親しくもない相手を、互いに縛るというのは、余りよい気分ではありませんでした。

そんなに情報量の多いサイトは、私がネットにハマっていた頃には、掲示板サイトのようなところ以外にありませんでした。それでもかなりのカテゴリ分けがされていました。常に管理者による、手入れがされていたわけです。荒らしが起これば、通報(そういう機能はなかった)しなくともちゃんと対応されますし、誹謗中傷の類いは絶対禁止、という強い規則がありました。

そして、他人を信用しない、という空気もありました。今より健全であったと思います。


私が実際にやったこと。

場に入る時は、自分から話しかけるようにしていました。リアルと同じですね。どうも。とか、やっほーとか言いながら、歓談するのをイメージしていました。

フォロー機能を使わない。互いに、縛らない関係性をつくっておくこと。

ブロック機能を使わずに、居心地が悪くなれば移動する。

猫をイメージすると分かりやすくなるかと思います。猫は、気ままに移動して居心地の良いところを見つけます。不快に感じれば、すぐにさっ、とどこかに行ってしまいます。そしてまた戻ってきたりします。

それでいいじゃないですか。と、思うんです。


ミスキーの特徴を活かして、自分だけの公園を、別に作る人も出てきました。

これを、私は、「マトリョーシカ現象」と呼んでいます。同等の自分だけの領域を別に増やせば、支配・規範から逃れられる。または、ネットコミュニケーションによる苦痛が和らぐ、または、そうすれば人間関係が円滑に出来るであろう。と、いう期待から、どんどん個人が大きくなろうとする、というものです。

節目、節目で見てきましたが、一見画期的に見えて、毎回、全部同じことをしています。だから、マトリョーシカ。大きさは変わっても、構造は同じです。人形の柄や形は、変わりません。

そして、ついに戻りました。SNSを辞めて、次々と、人々が誰にも干渉されない、個人サイトを持つような流れになりました。

インターネットで、個人が、一番大きかった頃に見た光景です。


あと、互いにフォロー縛りをしていると、誰も見ていないのに、延々と誰かに呟くことになりがちなんじゃないでしょうか。

(あれはとても奇妙な光景なので、ビックリしました。)Twitterは呟きツールといって、それをする場、でしたが、ミスキーは、いわば地域の公園のようなもの。

普段なら、公園でぶつぶつ独り言いってる人がおるなあ、まあ変な人やろ。で、終わりますが。ネットだと、人しか見えていないので大変です。そういうことをする、専用の部屋まで作らないといけない。

多分、フォロワーがいなければ、ミスキーで、何時間も独り言をブツブツ言ったり、壁打ち部屋で苦悶する人はいないんじゃないかな、と思いました。さっさとスマホを閉じてしまいますから。

私も、何かのサイトで壁打ち絵、をしたことがあるので分かりますが、あれは後から考えると、すごく虚しいことでした。SNSほど近距離ではなかったですから、ネガティブな思考もそこまで深くはありませんでしたけれど。

同じ街の中で、そのみんなに無視されることというのは、辛いことです。そのせいで起こった事件も、近年いくつかありました。京都アニメーションの放火、保育園の無差別刺殺事件。あれは、自分はここにいるよと、大声で叫んでいたんじゃないでしょうか。

後者の方は、「自分の痛みを証明するのに必要だった」と、正直に明かしています。

誰も彼らを見ることはなかったのです。


SNSの歴史の中で、私生活の様々な辛いことを吐き出して、それをフォロワーが受け止める、というのが、オープンな時代もありました。

ただ、SNSをやっていて辛いことがあって、それを吐き出すと、場が荒れますよね。論争になる。ツイッターは。そういったことが好きで仕方ない、という人ばかりになった。

だから、誰かがいっていましたが、「余程弁が立つ人じゃないと、快適にツイッターなんて出来ない」仰るとおりだと思います。私はスタートして一週間でやめてしまいました。

実際、学者や政治関係者ばかりがやっています。別にそんなことやりたくもない人は、不満ばかりが溜まりますから、そういうことにうんざりしたら、鍵をかけたり、インスタグラム、noteをやったりするんでしょう。そして今、ミスキーを始める人、個人サイトを持つ人が増えたように思います。

ただ、ネットはやめないんですよ。テレビの見るチャンネルを変えるだけ。

楽なんです、自分が変わらなくていいから。

まあ、マトリョーシカですから、変わったらもう違うものになっちゃいますから。それで食ってる職人さんは、困るかもしれませんね。システム開発者、プログラマーさんとかでしょうか。向こうにとって、顧客、ユーザーは、どうしたってお金にしか見えてないでしょうから、知ったこっちゃないですけどね。

とりあえず、ミスキーが今は一般的であるとして、相手も、また自分も、縛らない方が、生きてて楽だと思いますけど。

どうなんでしょう。

これも健全な工夫じゃないでしょうか。


2026.3月末 三寒四温、蒸し暑い初春の頃に。

@notepad_sencha
頭の整理をするために使ってます。気になることを、何かぽとぽとと書いています。置いてあるのは、だれの編集も通していないコラムです。 / Maeda Yumiko〈HYOGO〉