誰にも聞こえない慟哭の話

Nothing
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 エドワード・ゴーリーという絵本作家が好きだ。理不尽と不条理とたまにノスタルジーを煮詰めに煮詰めたようなストーリーの絵本を多数出した作家。ナンセンスの中にユーモアがあり、愛嬌もあれば恐怖のバリエーションも多い、多彩な作家である。私はこのエドワード・ゴーリーという作家に多大な影響を受けている、と思う。思っているだけ。思うだけなら自由だし、タダである。

 自分のキャラクターについて語る文章というのはこれで二回目になる。慣れない。他人を語る感覚、知らない面もあるのに語ってもいいものか、という不安。一人一人に対して向き合っている時間も違う、不誠実な私が一個人を語るというのはなんとも傲慢な話である、と思う。それでも私が私の物語の中で動いている人を語るのは、その人の供養にもなるのか、などぐるぐる考え出している。今回の語りはあまり折り合いが着いていない。そういうキャラクターであることは間違いない。目を逸らし続けてきた相手なのだ。こうやって目を合わせる機会は、もうこの先あるか分からない。あったとしても、先のことだろう。

 名前はアリュシナシオン・デゼール。優しすぎた人間であり、自分の欲望に抗えなかった人間。設定に関しては「魔法と人の話」にて述べているのでそちらを参照してほしい。今回語るのはこの人間がいかに人間らしいか、ということである。

 そもそもの話だが、シオンを作った当初は「明るい先生、何一つ曇りのない人」の予定だった。どうしてそれが今も苦しんでいる人間になったのかは、正直覚えていない。思い出そうとログを漁っても、さっぱり思い出せないのである。手癖とだけは言いたくない。手癖という言葉で片付けたくはないのである。もっと何か別の理由があったはずなのだが、当時の私はどうやらそれを残しておいてはくれなかったようで、過去の私に今の私は疑問を抱いている。

 ただ、彼の過去の話は残っていた。ここで語ることは「存在していない人間をあたかも存在しているように語る」ということなので、あくまで創作として割り切ってほしい。私のこのスタイルを今後も変えることもないだろうし。

 彼の卒業論文のテーマは蘇生術についてだった。錬金術科の彼がそこに興味を持った理由は書かれていない。けれど、きっと彼は「理想」としてそれは「成し遂げられること」であると信じていたのだろう。なぜならば、自分の書いた話である『アリュシナシオン・デゼールはエメラルドの夢を見るか?』には以下のような文章があるからだ。

「理想とは、かくも難儀な言葉である。この言葉に圧縮された意味合いをすべて知る者などいない。人類がその言葉の意味を追い続けて一体どれだけの時を過したと思う? 人々は土地を見つめ、空を見つめ、今星を見つめている。そのどれもが理想という言葉で表せるのだとしたら、俺の信じていたあれら全てのものが理想という言葉で表せるものであると、どうしてそう思えたのだろうか。」

 文章の下手さについてはご愛嬌ということで置いておくとして、現時点の彼が当時のことを振り返ったとき、なぜそれらが理想という言葉で言い表せると思えたのか、ということを未だに思っている。シオンという人間はその当時のことを(その所業も含め)後悔している人物だ。この独白は私たちにのみ聞こえている、見えている独白のため、シオンという人間が語る、という自分の中ではある種珍しいものである、と思う。私は彼の過去を知っているけれど、彼が自分から過去を語ることはないから。

 蘇生術の卒論を見たよろしくない研究機関は彼をそそのかすことに難を感じなかったことだろう。彼も彼でその理想を強く信じていたのだから、「現場」を直に見れることを楽しみにしていたに違いない。これを私が今言葉にするのだとしたら、明確な「自覚のない暴力」という言葉以外にない。

 その現場が孤児院、しかも赤子や幼い子どものいる場だと知ったときの彼は何を思ったのだろう。失敗した蘇生術の実験の凄惨な場を見て、何を思ったのだろう。赤子の口から節足動物の足が生えているのを見たとき、彼はきっとその理想がどんなに恐ろしいものであったのかを理解する暇すらなかっただろう。失敗作を始末していく様が広がる中で、決して研究機関の人間ではなく、ただそこに見学に来ただけの彼に、「人殺し!」と言い放った施設の人間を彼はどう思ったのだろう。スラックスを小さな手が掴んで、ただ一言「いたい」と言った子どもだった何かの言葉は今もシオンの眠れない要因となり、当時はそこから先の記憶は思い出せないものとなっている。私の手元の当時のテキストはそこで終わっている。

 彼は教師になった。元々教師になる過程での上記の出来事であった。もちろんそこに葛藤がないはずがなく、教師になることそのものをやめようと思ったこともあっただろう。それでもなったのだ。結局彼は、己の目標を優先し、そこにしがみついたのだ。教師になった今でもその研究機関から「お呼ばれ」を受けては、失敗作となった誰かを見ている。やめたいのにやめられず、何も決断ができない。理想から逃げられない。それが彼である。今も彼は眠れない夜を過ごし、誰かに裁かれることを望んでいる。けれどその実験はもみ消されてしまった上に、別にシオン自身がその手を下したわけではないので、裁かれることは多分ない。事情を話せばきっと世間の評価は「騙されて、加担させられていた被害者」であろう。本人にとってそれがどんなに苦しいことか私には分からない。きっと、辛いのだろう。

 もう一つ。彼の魔法の力は隔世遺伝である。植物が好きなのに、自身の力はそれを枯らしてしまう力であるその力を最後に持っていたのは父方の曽祖父である。なぜ突然そんなことが起こったのか。一つは父方の家系が大昔に魔法使いの家系であったこと。しかしそれは大昔の話であり、隔世遺伝すら直近の世代では起こらないほど前の話である。

「ちょっと誰かがいじった」のだとしたら。その力が、その悲劇が、誰かによって仕組まれていたのだとしたら。

 彼の転換が子どもが轢かれそうになっているところを庇って轢かれたところにあったことも、それが機関の人間に利用されて、自分が今度は蘇生させられる側になったことも、そうして簡単には死ねない身体になってしまったことも、その後とある人間がその研究機関の無残な姿を見たことによって「一月四日事件」として明るみになったことも、「ちょっと誰かがいじった」ことに起因するのだとしたら。

 彼は、今も死にたいのに死ねないまま、どこかをふらふらと彷徨っている。爛れてもなお美しい翅を引きずりながら。

 彼は結局苦悩しながら今もどこかで生きている。私は彼の苦悩に共感することもできなければ、その行動に納得することもできない。身勝手な人間であることは変わらないし、どれだけ穢れのない白衣を教師として纏っていたとしても、己が汚れた人間であることは変わらないと思うのである。余談だけれど、彼が変身術を取得したのは教師になる前であり、孤児院での出来事の後であったため、蛾になっている。孤児院の出来事より前に取得していた場合、蝶であった可能性がある。まあこれも今となっては遅い話であるが。

 私は彼を死なせないまま苦しめていることに、一切の罪悪感を感じていない。元より私は苦悩して、苦悩して、裁かれたいと思っているのに、自分で命を投げ打つ覚悟もなければ、周囲が裁いてくれるわけでもなく、ただその苦しみを抱えたまま生きていくしかない人間が、弱くて好きなのだ。その弱さごと人間的だ、と思える。「その要素までその人を形成する要因だから、一生変わらないでいてね」と本人にドストレートに言えるのが、シオンの学友のラブカと呼ばれる人外であるのは、皮肉な話である。

 私の中で彼は見ていて痛々しい人間だ、と思う。それを見続けていると、私自身が加害者になってしまっているような感覚に陥る。まあ、苦しませているのは誰でもないこの私なので、間違っていないのだけれど。

 理不尽と不条理と皮肉の中で彼を生かしている。簡単に死んでもらっては困るし、死なせる気も毛頭ない。苦悩したまま生きて、生きて、その足が動く限りずっと生きていてほしいのである。たとえもう人間でなくなったとしても、その根は人間であるのだから。そんな人間をもうずっとカワイイ、と思っている。カワイイから、死なないでほしい。生きていてほしい。

 だってエゴを優先したのは他ならぬ彼だから。貴方に対してなら、私もエゴを優先しよう。

 ただ、それだけの話。

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@nothing
不定形でひとりぼっちな惑星、五億光年先の不条理に怒れるアナタ