私の中では当たり前のことなのだが、私の作った創作キャラクターは「存在しない」。これは曲げられないことであり、私にとってのこだわりでもある。さも存在しているようなニュアンスで語っているのは、根底には「存在しない」という理屈があり、あたかも存在しないものを存在しないものと割り切って存在しているように語るのが好きなのである。
よく創作キャラクターや版権のキャラクターに限らず「存在している」と言う人間がいる。私は自分のキャラクターでそれを言われると、とても不思議になり、そして大抵疑問に思う。なんで存在していないとダメなのだろう、と。多分言葉のあやというか、冗談交じりで「存在している」と言っているのだろう、と思うし、そう理解しているのだが、私にとってはその言葉が不思議でしょうがない。存在していようがしていなかろうが、結局は私たちは明確に「存在している」側であるわけで、紙や画面の中の人間とかそうでない奴とかとは明確な境界があるのだから。
バーチャルの世界になってその境が薄くなった、という人もいるのかもしれないが、それは「存在している」のだろうか。不思議だ。見ていたいのは偶像で、それは存在していないのに、明確に画面の向こうには血肉のある人間がいるのだ。存在しているのに、存在していない。人並みにそういったものも嗜むけれど、なんだかそういう気分になる。人間が偶像を好きなのは、どうやら変わらなさそうだ。
私の作ったキャラクターは存在しない。私が綴らなければそもそも虚空の穴の中にいて、生きているわけでも死んでいるわけでもない。私が神様みたいなもので、作中の生死を握っているわけだけれど、ただの字と絵は呼吸もしなければ、心臓も動いていない。彼ら彼女らは存在していなくて、無に毛が生えた程度の存在なのかもしれない。それは内的隣人だってそうだ。いや、彼は私からしたら「存在していない」のに「存在しているように見えている」何かしらの幻じみた存在なのかもしれないが。
存在していないものも面白がれる。それが楽しいからやっていて、存在していないから良い。だから「存在していない」が好き。ただそれだけの話。