理不尽なことが好きだ。なぜなら世の中の大半がそうであるからだ。それを描かない、というのは私の中で嘘になる、という変な感覚がある。ある日突然愛する人が救急搬送されてそのまま帰らぬ人になることだって、いじめの標的にされるのだって、セール品の総菜が目の前で他人に取られたのだって、どうして私が、あるいは私の愛する人がこんな目に、となる。何かに巻き込まれることだって例外ではないし、それは何か楽しいことに巻き込まれることだって、悲劇の渦に放り込まれることだって、同じく理不尽である、と思う。
『ミスト』という映画がある。スティーヴン・キングの中編小説を映画化したものだ。監督はフランク・ダラボン。『ショーシャンクの空に』や『グリーンマイル』の監督である。どうしてあんなに感動する映画を撮れる人間が、こんな理不尽を凝縮した濃縮理不尽みたいな映画が撮れるのか、あるいは撮ろう、と思ったのかは些か疑問ではあるが、本題はそこではない。その映画のラストの理不尽さが好きである、という話である。もう語りつくされている映画のため、ラストが理不尽である、というネタバレくらいは許してほしい。
私があの映画を観たのは、午後のロードショーでやっていたのをたまたま観ていた、というだけの話である。映画との出会い、映画だけでなく創作物との出会いとは一期一会なものである、というのは私見であるが、この映画とのそんな出会いを忘れることはこの先もないだろう、と思う。とにかく酷い、というのがそのときの感想であったが、妙にそのラストに納得していた。理解ではなく、納得。そのラストが腑に落ちたのだ。この映画の尺の中で、この主人公が迎える物語的なラストとして、これ以外ない、と当時は本当に思ったのだ。後に原作を読んで、そのラストの違いを見てそんな偏った考えはなくなったのだが、当時は本当にそう思っていたので、あの映画を巷で形容される「胸糞」とは思わなかった。未だにどうしてもそう思えない。酷いなーとは思うけれど。
別にあのラストが正解だとは思わないのだが、あのラストがどうしても好きなのだ。嘘をつかれていないような気がする。人間に降りかかる理不尽というのはこういうものであり、誰が、とか関係なく誰にだってある日突然降りかかるものであり、それに人間はどうしたって抗えない。それがたまたまあの主人公であっただけのことで、あの選択もそんな状況下である種「選ばされた」のである、と思うと、私はその理不尽で不条理な結末が美しくて好きだ、となる。なので私の中で『ミスト』という映画は綺麗な映画であるという印象だ。
人間よりも上位の存在がただそのときの気分でなにかアクションを起こす。それが人間にとっては理不尽なことで、人間が普段生活している現代において起こっている理不尽な現象というのは、案外そういった「誰か」の気分だったかもしれない、という想像をよくする。私の創作キャラクターの人外というのは、そういった「気分」で動くことが多い。もちろん独自の思考や哲学、美学を持っているかもしれないが、それは私の知ることではない。分からないことは知らない。単純な話である。ただ、人ではない何かしらの存在が、理不尽を悪意なくばらまいているとしたら、それはそれで好きなのである。ルーレットを回して、あるいはサイコロを転がして、出た番号の人がそういう目に遭いました。あーあ、というだけでも好きだ。
人外が理不尽の元凶でなくてもいい。なんなら人外もその理不尽の対象内にいてもいい。結局、理不尽というのは現状人を選ばない(と私は生きていてそう思っている)のだから、生きとし生きるものすべてに、ランダムに降りかかりますよ、というだけのことだったら、人間もさすがに諦めるだろうに。
でも人間って諦めきれないから、悔しがるし、悲しがるのだろうな。そう考えると、人間って嫌いだけど面白くていいな。
ただ、それだけの話。