白い背景にただポツリと浮かんでいるかのような黒い明朝体が好き。たった今無から湧き出たみたいなその体裁が、虚空から浮上したような実体を伴ったカタチとして存在していることに言いようのない胸の高鳴りを覚える。そして一時的に満たされた気になる。それは多分、孤独が目に見えているような気がするからなのだと思う。
現代において「孤独」という言葉は当たり前にそこにあるもののように存在し、日々どこにいてもどこからでも襲ってくる驚異、みたいなように見える。人はこの「孤独」というものに滅法弱い性質を持っているのだと思う。そりゃそうだろう。人間というのはコミュニティの中で生活していて、集団生活が生活スタイルで、一人で生きていけるように作られていないからだ。多分。誰がそんな面倒な生態を組み込んだのかは知らないが、私はこの生態を人間に組み込んだ奴が外部の要因として明確に存在しているならば、ソイツを一生恨むだろう、と思う。
「孤独」という驚異は日々誰かの心を蝕んで、苛んで、誰かをこの世界から連れ去っていってしまったりする。多分「孤独」を過剰に意識しすぎると「絶望」になって、そうして追い込まれた結果、自分の存在そのものを手にかけてしまうのだろう、と思う。勝手な印象だけれど、そんな風に思っている。その形は多分人それぞれ違うのだろうが。
私は「孤独」が好きで、かつ嫌いだ。理由は簡単で、「孤独」は私のものだからだ。
私が何で孤独を感じ、絶望を感じるのかは私にしか分からない心の内の燭台で、その燭台の火が消えたとき、私は死ぬのだろう、と思う。火は消えても燭台は残る。だからたとえ私が死んでも、私の「孤独」も「絶望」も残る。それはこうして文字になったり、絵になったり。そうしてカタチになって残る。それが燭台だ。私はその燭台を気分によっては見たくもないし、叩きつけて壊したくなってしまいたくもなるが、「表現する」というときはどうしたって愛おしくなってしまうので困る。愛おしくて、けれど中心に穴が空いてしまっていて、張り詰めた冬風がそこから通り過ぎていってしまうような、そんな感覚。その感覚は白い背景に黒い明朝体がただぽつんと存在しているのを見たときと同じような感覚だ。
私の「孤独」も「絶望」も私のもの。ただそれだけの話。