午前、ポッドキャストを録音する。録り始めて数分してから、レコーダーのソフトがうまく動作していないことに気がついた。なんだよ、と思ってPCをいじっていると突然ブルースクリーンが映し出される。日の入り直後の空のような鮮やかな青。ビビるからやめてくれ…と思いつつ再起動して、別なソフトウェアを使って録音を再開した。出鼻を挫かれてテンションが下がった状態からスタートしたけど、だんだん話が創作している時の意識や思想の話になってきて盛り上がった。言い淀みながらもなんとか言葉を繋いでいるうちに、いつの間にか1時間以上が経っていた。次の予定には遅刻した。
言い淀むこと。M1の時、期末発表の講評で「今年の学生たちは滑らかに説明ができすぎている」とある教授に言われた。できるように対策してくるんだから当たり前だろ、とその時は思った。しかし音楽や芸術、あるいはそれに限らない生活の中での感覚について語ろうとしたとき、私たちはときに言葉に詰まり、言い淀み、時には黙り込んで何十秒も考え込んでしまう。それはコンセプトや歴史的な文脈みたいな大きな枠組みついて語る時ではなく、むしろその音、その色、その手触りが「どのように感じられたか」というごくごく素朴で直接的なレベルで話す時に頻繁に起こる。ある物質とわたしたちの身体が出会った時、その境界面で何が起きているのか、それをミクロな科学的説明に還元せず、反対にマクロな歴史やコンセプトにも回収せず、ただそのままに、ベタに語ることは、じつはとても難しい。それはただの手触りであり、ただの響きであり、人の感覚というよりその物質の特性に近いものだからだ。
もしそういう感覚を完全に近い形で表現できる言葉があるとすれば、それは言語というより蛇の鳴き声や獣の唸り声に近いものになるかもしれない。たぶんそれは言い淀みの延長で、ある種の吃りだ。言葉よりも沈黙に近いものだ。
身体ともの、言葉とものが擦れ合ったとき、私たちは言い淀む。言葉を失う。そこで生まれた沈黙のなか、振動のなかにこそ、本当に言い表すべき何かがある。芸術はその先にある。僕らはもっと言い淀み、ぎくしゃくと話さなければならない。
戦争や、差別体験や、あるいはそれに限らない歴史的な出来事について語られる時にも、きっと本当のリアリティはその言い淀みに、吃りのなかに隠れているのだと思う。歴史記述が不十分なものでしかあり得ないのは、それがただ「勝者の歴史だから」なんていうシンプルな理由ではなくて、そういう吃りや言い淀みや震えを、「記述」自体が拾い上げることができないからだと思う。敗者ですら語り得ない何かがある。「語り」に含まれず、こぼれ落ちてしまう何かが。
お前って仙人みたいだな、とさっき友人に言われた。俺たちの考え方は、たぶん東洋思想的な何かなんだよ。そうかもしれないと思った。直接手を伸ばして新しい人やものと繋がるんじゃなく、「同じ振動を感じ得る」ことで、僕らはあらかじめ繋がっている、と信じているから。「僕はガチの中庸をやりたい」と彼に言った。あらゆる対立項の区別を解体する、ガチの中庸。
それから楽器屋を見て、ブラジル料理を食べに行き、会話に挙がった後輩を呼び出そうと電話して断られ、興味本位で頼んだお酒の強さに驚き、思った以上に酔った状態で帰路に着いた。帰ったらミックス作業をするつもりだったけど、たぶん無理だ。寝てしまうと思う。明日の外出はやめて、溜まってる作業を進めよう。