2025/12/03 閉じ直し続ける

nozakimugai
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公開:2025/12/3

駒場にある研修センターで会社の研修。必要以上に早く身支度を終わらせ、ある程度余裕を持った時間に駒場東大前に着いたが、駅から研修センターまでの道が分からず10分ぐらい歩くことになった。結局着いた時には7割ぐらいの人が揃っていた。

あ、この人、嫌い!みたいな人が何人かいた。

昼休みになり、近くの喫茶店に来ている。さいきん喫茶店ばかり通っている。職場近くにあって座れて比較的静かな場所が喫茶店くらいしかない。

今日行ったのはグランドピアノと大きなオーディオが備えつけられた古い音楽喫茶だった。壁に埋め込まれた木製のスピーカーからクラシックのレコードが流れ続けている。僕以外に客はいない。80歳くらいの老夫婦が店を回していた。

おばあさんが水を運んで来た。注文しようとしたとき、彼女のポケットから補聴器の本体が落ちた。それを拾い上げてきちんとセットするのをメニューを開いて待っていたら、彼女は僕が何か言ったと思ったのか、「耳が悪いもんでね」と申し訳なさそうに言った。メニューを指で指し示しながら、なるべくはっきりした声でカレーとレモンティーのセットを注文した。

セットのサラダやスープ、カレーが運ばれてくるたびに「ありがとうございます」と声をかけた。彼女はそれが聴こえているのかそうでないのか、曖昧に頷いたり少し微笑んだりして何も言わずに戻って行った。会計時にも声を掛けたが、反応したのは夫の方で、彼女は遅れてそれに気付いた。補聴器をつけていても、ほとんど人の声は聴こえていないのかもしれない。

彼女は聴力を失い始めてから、周囲の人間が自分に何を要求しているのか、自分の行動に相手がどういう反応を返しているのか、声を聞かずともなんとなく予測できるようになってきたのだろうなと思った。そしてその予測はおおよそ当たっているのだろう。多分、7割か8割くらいの精度で。だから予想が当たっているかどうかをいちいち確かめる必要がない。

そうして残された2割か3割は、補聴器のマイクにも、彼女の予測にも拾われずに消えていく。店はそれで回り、僕はカレーとコンソメスープとサラダとヨーグルト、食後のレモンティーを手に入れる。彼女は彼女の音響的・認知的な環世界の中でこれからも生きていき、僕もきっとそうだ。

人が「閉じる」ことについて最近よく考える。友達ともよくそういう話をする。人が自分のあり方を一つに定めてしまった時、一つの物語に自分の全てを回収してしまった時、その人は閉じる。人が自分にとっての相手の存在意義を一意に定めてしまったとき、二人の関係性は閉じる。決められたロールを互いに対して繰り返し演じるだけになる。相手ではなく、自分の予測の中の相手の動きだけを見て生きていく。

この数年のあいだに何人かの友人と僕との関係はそうして「閉じて」しまった。相手が閉ざしたのかもしれないし、逆かもしれない。一度「閉じる」と会話は成立していても、その会話の中には誰もいないような感覚になる。言葉だけがある。恋愛や結婚も大きな要素だと思う。結婚をすると夫婦以外の関係をある程度「閉じる」ことを社会に要請されるし、子供が産まれれば自分自身を「親」というロールに回収せざるを得なくなる。最近強く「閉じ」を意識するようになったのは27歳という時期のせいもあるのかもしれない。

ロマンティックな恋愛や結婚に強くコミットできない自分はいずれ誰からも「閉ざされて」しまうのではないかという不安がある。

というか、たぶん僕も大概閉じているのだ。自分が意識している範囲で開かれようとしていても、その意識の限界を超えた部分では閉じている。みなそういうものなのかもしれない。

ただ、「閉じた」と思っていた関係性が再び開かれる、あるいはズレた位置で閉じ直すようなことがごくたまに起こる。深い話をすることなど2度とないと思っていた友人と突然政治の話をすることになったり、同じ時期に似たような悩みを抱えていたことが分かったり。そういう瞬間に希望を感じたり、また失望したり。

そのためにはやっぱり、自分が有機的に変化し続けるしかないのかもしれない。そして相手の変化、相手すら気付いていないかもしれない有機的で微妙な変化に目を凝らすこと。現時点で実践できていると胸を張って言うことはできないけど、そういうことをできる人間でありたいと思う。

@nozakimugai
Albemというバンドでラブい曲を作ってます。音楽論、身体論、批評も書く。