この世で一番大好きな人と二ヶ月ぶりに会った。ひどく体調が悪そうなのにわざわざ手紙を渡しに来て、案の定すぐに帰ってしまったので私もすぐに手紙を読んだ。とても体裁の整った文章だった。何度も何度も推敲して書いたのがよくわかった。もともとそういう人なのだけれど、誠実だなと改めて思った。手紙にはいままでの契約を破棄したい旨や、距離を置きたいが絶縁はしたくないこと、しかし私がそれを望むなら受け入れるということ、私への感謝の気持ちが綴られていた。私は手紙じゃなくてLINEで返事を送った。もう会うつもりはなかったからだ。すぐに返事をしたかったからというのもある。私ははじめ、『しばらく絶縁状態になりたい。それが一ヶ月になるか一年になるかどうかはわからない』と書こうとした。しかしあの子の交友関係は極端に狭く、現在は私との関係が唯一の社会との関わりであると言っても過言ではないほどだ。そのような状況下で絶縁状態になってしまったら、きっとあの子は死んでしまう。本気でそう思って、『私から遊びに誘うことはしばらくないけれど、あなたから声をかけてくれたならなるべくそれに応じたい』という文面に変更した。期待を持たせる嘘だ。しかしこの嘘に気づくまでの少しの間でいいから、ほんのわずかだけでも希望を持って生きてほしくて書いた。私はもう絶縁したつもりでいる。LINEは通知をオフ、非表示にした。もしも連絡が来たら、できれば返信したいけれど、それができるかどうかはわからない。どちらにせよ会ったり話したりする機会はいっさい設けない。あの子と繋がっているSNSもすべてログアウトした。今後インターネットをやるなら別の名前でやっていくつもりだ。まだ考え付いてはいないけれど、そのうち納得できる名前が見つかるだろう。あの子はきちんと私に向き合ってくれたけれど、私はそうできなかった。逃げることしかできない。そうでなければ生きていけない。もしこの選択によってあの子が死んでしまったなら後を追うつもりだ。そんなことをしても意味がないけれど、あの子が自死を選んだ世界は私には耐えがたい。苦痛だ。いまだって痛みを感じているけれど、あの子がいなくなってしまったときが、死に追いやってしまったときが、最もつらく苦しいだろうから。もしかしたら知る手立てもないかもしれないが、自死をしたということが確実であるとわかったときに私も死を選ぶだろう。骨のある場所がわかったならばそこに立ち寄ってから飛び降りるなり首を吊るなりして命を落とす。これは私にとって確定事項だ。非合理的で愚かな選択であることは承知している。しかし、感情が、それを選ばざるを得ないのだ。あの子の死んだ世界で私が生きていく、ということから生じる認知的不協和は、あまりに大きすぎる。さながら明治天皇に殉死した人々のようだが、まあそれと同じだと思っていただいてかまわない。結局私は、ひとりの人間を、信仰してしまったのである。これが唯一の間違いだった。はじめに間違えたら終わりまでぜんぶ間違いであることは、今回の場合当てはまってしまう。私は愛と信仰の違いが最後までわからなかった人間だ。ひとを愛することは、ひとを信仰することと同義であって、それに気づかなかったのもほんとうに愚かだった。愛することをやめることは、少なくともいまの自分には不可能だ。あの子が死にませんように。願わくば私の存在しない世界で幸福に生き続けてくれますように。身勝手な願いを託して筆を置くこととする。