あの子のことを好きな気持ちでいっぱいになってから、世界の風景がまるで違って見える部分もあれば変わらないところもある。
「居場所」とは物理的な空間であるという説明では不足していて、むしろある人と過ごした時間の蓄積の結果である。つまり、居場所=人間そのものであるといえるだろう。空間と時間とその場にいた人間と交わした言葉によって、居場所は形成される。 旧友がまるきり他人(ここでの「他人」は話があわなくなってしまったり、まったくの別人のように感じてしまったときを指す)になってしまったという経験は、かつての居場所が消失したことと同義である。しかし私にとってあの子がいる限り、私の居場所はなくならない気がする。これは信仰なのだろうか、少し似ているのかもしれないね。
肉体という制約があるからこそ、「居場所」は形而下のものであると捉えられがちだけれど、ほんとうは形而上にこそ本質が存在していると私は考えている。仮に肉体がなくなって思考だけの存在になったとしても、「居場所」は必要なのではないかと想像している。
私はあの子とならどこへでもどこまでも行けると信じている、なぜならば思考を遥か遠くまで飛ばすことができるから。もはや私はひとりではなくなったのだ、そう思うのは傲慢極まりないことだけれど。
行きたい場所が遠ければ遠いほど人は孤独になる。ひとりじゃない、と思えることは錯覚や幻想だと思っていたけれど、希望だと認識してもよいのかもしれない。なぜなら認知は全て思い込みで形成されているので。
話は変わるが、私が会話で求めているのは返答ではなく反応である。それも、決まりきったものではなく本当のものを求めている。AならB、BならCといった反射的なものはむしろ不愉快である。極端なことをいえば、必ずしも質問に答えてくれなくていい。その反応が誠実であるならば。
と、いうようなことを思いついた順にぽつぽつと話していた。あの子は静かに聞いてくれていた。ときおり共感を示してくれたりもした。思考の破片の垂れ流しが許される、ましてや受け入れられるとは思ってもみなかった。フィクションで見た関係性を幾度となく羨ましいと思ってきたけれど、気づいたらそれが手に入っていたような気がして、ほんとうに大切にしなければならないと実感した。あなたとならどこへでもどこまでもいけると本気で思っている、愛していますと声に出して伝えられた。今日はそれだけでじゅうぶんじゃなかろうか。