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2026年4月の日記

nshi
·
公開:2026/5/1

2026/04/11

 不安、恐怖、怒りなどの負の感情が未分化であいまいな上に、身体と精神の調子を判別できないので、すべての不調がいらだちとして出力されてしまう、というバグを抱えています。感情のラベリングをがんばっていかないといけない。

 今日のは多分、因数分解すると、気圧で身体がだるかったこと、将来への不安、幼少期のトラウマ由来の性格、不安の伝染、の4つが「いらいら」として発現したものだった。

 "もや"をがんばってやり過ごすのではなく、晴らしていくことにエネルギーを注ぐほうがよい。今日のまなびでした。


2026/04/12

 『プロジェクト・ヘイル・メアリー(上・下)』を読みました。

 電車に乗っているとき、ふと「今乗車している全員が左右どちらかに偏って一斉にジャンプすることもやろうと思えばできるのに、それをしないのが私たちなのだ」と考えて、(実際どうなのかは知りませんが)人間の善性ってこういうものなのかな、と思ったことがあります。

 ここで私がとりあえず「善性」と言っているものは、善悪の外にあって、われわれの安定的な生活をキープするためのある種の信号のようなものを指そうとしています(おそらく一から百まで間違いなので、今後の自分に期待)。

 しかし人間のすばらしさとは、私たちという共同体に愛着をもち、それを維持するための献身的な営みだけを指すのではなく、ほんとうのすばらしさは、好奇心を持ち、探求し、隣人を愛することにあって、「故郷を救う」という大義名分は「私とあなたを救う」道の先にのみ存在する、というのがこの作品の信念だと受け取りました。

 だからこそ、ストラットは、「グレースを特別視」しながらも彼を片道切符の宇宙の旅に送り出す過程で、決してグレースとの和睦の道を辿ら/辿れなかった。グレースという「クレイジー」である(という人生を最終的に選び取った)人間の「語り」であるこの作品は、あくまでもストラットの信念を歓迎しないように思います。

 現代のコペルニクス、勇者、ライランド・グレースは、やはり勇敢です。地球のために名誉の死を遂げることを勇敢さとは認めない、というのが作品の根底にある秩序ですから、我が身を地球救済という崇高な任務に捧げた志願者たちのほとんどが任務を遂行する前に死にますし、グレースは搭乗を拒否します。あの選択というのは、勇敢さの文脈で語られるべきではありません。

 いわば全人類の一大事において、ストラットを含む〈人々〉、つまり今この現実を生きる〈わたしたち〉さえ、いつかそこに居合わせる可能性がある、あるいは今まさに居合わせている集団としての〈人々〉は、「地球を救う」という信号に気を取られ、「私とあなた」の関係を意図的かそうでないかに関わらず見ていません。そして意図的かそうでないかに関わらず、グレースは信号を無視しました。それこそが、彼の勇敢さだと思います。


2026/04/13

 その①、映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を観ました。

 これは順番を間違えた気がする。映画を観てから本を読んだほうが、映画に関してはより楽しめた気がします。しかし、小説に関して言えばこの順番が最善な気もします。100パーセントの読書体験を得たために50パーセントの映画体験になりはしたけれども、それぞれ別個に十分面白かったです。

 こういう、映画の力、そして音楽の力を信じている映画が好きです。映像化する意義をきちんと持たされた映画だった、と思います。

 あえていうなら、映像化に伴う弊害として、いくつか気になった点はありました。

 まず、ロッキーを"かわいく見せ"すぎではないか。あれはわれわれに都合のよい、まさしく人工的なロッキーだったように思います。アニメーション的な"かわいげ"、"愛想"のある描き方。映画にするにあたってそうなるのは理解できるのですが、なんというか最初から「私たちが考えるグレースの親愛なる相棒、ロッキー」を見せられている感じがして、その視線は対等ではない、と思いました。

 そして、小説で細かに描かれた試行錯誤の過程が映画ではすべてセリフで処理されていたこと。アストロファージ解明の過程にせよ、プロジェクト〈ヘイル・メアリー〉チームの苦悩と葛藤にせよ、タウメーバとの格闘にせよ、映画では(当然仕方がないことではあるのだけれど)さらっとセリフで流されて結果だけ見せられるので、いまいち彼らの体験を共有できません。この点に関しては先に小説を読んでいてよかったと思いました。

 あとは、削られたセリフがことごとく私の琴線に触れたセリフだったので少し残念だったことくらい。「人間はクレイジー」とか、ストラットの歴史学専攻の話とか、好きだったんですが。

 それから、小説を読んでいるときは特別そうとは考えなかったのですが、この作品の結末って恐らく画期的なんだろうな、と感じました。異性愛に帰結しなかったこと。この規模の作品がその挑戦を蔑ろにしなかったことはよろこばしく思います。

 その②、映画『名探偵コナン ハイウェイの堕天使』を観ました。

 映画として面白いか面白くないかで言えば率直に面白くはなかったですが、祭りとしては十分楽しめました。楽しめた、の内訳の大部分は萩原千速・世良真純両名へのメロつきが占めていますが、今年はこのふたりのためだけに観に行ったので個人的には問題ありません。

 というのも、今年に関しては「アクション強め」という前評判に加え、「バイクバトルミステリー」という謎の触れ込みがあったが故に、その辺のミステリーよりもずっとミステリーな私の思考回路が萩原千速と世良真純その他愉快な女たちによる小規模な『マッド・マックス 怒りのデスロード』を期待してしまったために起きた不幸な事故として受け止めています。萩原千速と世良真純はメロかったが、それは私の想像の範疇を超えず、かつ映画の面白さには何ら加味されないメロさでした。

 物語上のうまくいってなさについてはその方面に明るいいろんな人がいろんなことを言っているので、「そうなんだ〜」という感じ。

 では何が私にとって面白くなかったのかというと、勇気のなさだった気がします。なんか、萩原千速という女の力を信用してないですよね?という気持ち。

 それから、ここ数年の映画コナンは劇伴作家が変わったために、個人的に「記憶に残る映画」になりにくい傾向があります。

 私は音の記憶が優位かつ音楽大好き人間なので、音楽の使い方はかなりその映画の好き嫌いを左右します。『世紀末の魔術師』が個人的ベスト殿堂入りなのは、音楽が好きだからです。湿度の高い怪盗キッドが好きとか作画が好みとか他にいろいろ理由はあっても、第一位は音楽です。

 こればかりは慣れでしょうから、判断するには早計だとは思うのですが、今の劇伴はなんかこう「交通整備がなされている音楽」という感じがして、効果的ではあるだろうけれど、つまり劇伴としてとてもふさわしいものであって、これが評価されることもよく分かるけれど、私の好みとはあまり相性がよくありません。もう数年もすれば慣れるだろうとは、思う。


2026/04/15

・少しでも「リベラルっぽい」(笑)発言をしようものなら、必ずと言ってよいほど「本が好きなのか」とか「本をよく読むのか」とか訊かれます。それはたいてい、その人が私との会話から身を引くための発言であり、ときには冷笑の意図を含んでおり、嫌味です。「本が好き」ということはただ「本が好き」ということであって、「本が好きか」という問いは、お前の一方的な線引きのための便利なツールではない。

・カウンセラーに人生初カミングアウトをして以来、若干カウンセリングに行きづらくなっている節があります。未だかつて現実に「カミングアウトをした自分」が存在したことがなかったので、多分、どう振る舞えばよいのか分からないのだと思います。高揚感というか、正規の思春期の訪れという感じがする。


2026/04/17

 やらなければならないことをやる時間を犠牲にして(するな)地球を編み直していたんですが(するな)、因果応報というか、半分ほど編んだところで糸の色を間違えていることに気づき、すべてが無に帰しました。

 ここまではよいのですが、問題はこの出来事がなぜか私の世界を氷河期に突入させてしまったことにあります。

 私はときどき、しょうもないことをきっかけにして、自分のすべてを否定されたような、"無意味な私"を突きつけられたような極端な落ち込みが発生し、全否定・全拒絶モードに入る、謎の氷河期が訪れます。氷河期はだいたい3時間の沈黙とふて寝をもって終わります。原因は、未だ解明できていません。

 私は、私という人間に対して本当に理解に苦しんでいます。日々。やってられるか。私がこうなのだから、周囲の人間はたまったもんじゃないだろうなと思います。でも、すみません、私に困っているのは私も同じです。助けてください。


2026/04/24

『100分de名著』ウィトゲンシュタイン第3回目の放送を観ました。

 私は今まで自分について「発達障害っぽいどころがあるな〜」とぼんやり思っていて、自分がいわゆる"普通"ではないという認識を持っていた(「発達障害っぽい」という自己の捉え方のみに由来するものではなく、内外の抑圧を受けて形成された私のアイデンティティの一部として)。

 けれど、この放送を観て「ちがうな」と思い至りました。ちがうというか、私はその名付けを必要としない、と分かりました。

 私はこれまでの人生経験上、かなり大部分で生活とか体験とかいうものを疎かにしてきて、それに起因して私の言動の「ロボットっぽさ」が出来上がっているのだな、と。そしてこの「私はロボットっぽいんだよな」もまた外的な要因によって自分の中に定着したラベリングではあるのだけれど、ともかく、私は人間であり、これからさまざまな発見を楽しむことができるだろう、と思いました。そして同時に、私という人間が、言葉の理解についての「両輪」をいかに下手なりとも稼働させている人間である私が、「ロボットっぽい」理解をする場合に偏ろうとも、私は今後、そのことについて"異常"という認識を受け付けなくてよいのだ、と思いました。