自分にとって人を好きでいることは当たり前のことであったし、嫌いという感情自体があまりわからない時期もあった
今でも人・もの・ことをはっきりと嫌いと言い切ることができず、苦手だと言い換えることもある(自分は嫌いと苦手も別のことだと考えている; そこを分けない人ももちろんいる)
逆に、好きでいることが常に自分の心情の一部であったために、特別に好きであることもまた微妙に掴めない
ふんわりと全員のことが好きなのである
…こう全員が好きというと軽いと言われてしまうのだけど、それもまた違う
その時々で共にいる人が変わりながら、常に人に対する好意をもっているのである
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今まで、ありがたいことに恋人がいない期間は少なかったし、それなりに上手くこなしてきたとは思っている
だけれども、自身が相手に与えてきたものは、与えられたものより遥かに少ないだろう
それは相手が持つ、特別に好きでいることへの期待値に応えている自信がないからだ
この期待値への応答に関してはかなり相手によって反応が違ってくる
自分は相手の行動を、いわゆる束縛という形で制限してこなかった
いつ誰とどんな形でいようと、何の報告も必要ないし(むしろ聞いたところで困るので言わないでほしいとさえ思う)、ただの簡単な愛の言葉でさえ特に欲していない
ただ、同じように自分も相手にそれを求める
これを苦と取るか楽と取るかは人によるだろう
ある人は束縛に愛を感じるだろうし、実際にその人がイメージしている「相手」はおそらく束縛されることが好きなのである
といってもあくまで彼/彼女/自身の体験から相手に期待して生み出した幻想にまた期待しているだけかもしれないが
この集中や独占という要素への期待値が食い違う時、大抵の場合において自分は「与えない人」となってしまうのである
一つ言えることがあるなら、今までの少ない経験からすると、自分はあまり良くない相手なのだろう
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我々(と表現する)にとって、共にいることはある種の契約、言うなれば最終的な心の安置所の担保と性的な独占契約として成り立っている関係であって、実のところ、(性的な関係を除いて)自分は共にいるであろう人間が男でも女でも構わない
友人は我々をドライだと言ったのだけど、自分の恋人・伴侶・友人、親だとしても、自分の喜びや悲しみの奴隷であってほしくない
彼/彼女がいるから、感情を自分で噛み砕くことができる
そして水平な自分に楽しさを足して、接することができる
そのコントロールの上に成り立つ単の平穏を共に過ごすことが、愛のある生活なのではないかと思っている
だからこそ、特殊な個人主義を前提に我々は共に過ごしている
これも一つの形なのだ
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誰か1人を深く思い、悲しみも喜びも分かち合う関係の人々を見ると、無性に応援したくなってしまう
自分にはできそうにないこととして、あるいは単純な興味かもしれない
理想として語られる映画の中の愛が「深く思う」形なら、逆説的に、このような関係を維持できる人はごくごく稀なのだろう
自分と似たスタンスを取る人はあまり見ないけれど、実のところでは皆うっすら似通っているかもしれない
とてもじゃないが、そう思うと、自分と異なるスタンスを取る人たちを馬鹿にはできない
だから、そして、人が好きなのだろう
私の/俺の内面よ、知り、尊ぶのだ
きっと好きでいることは悪いことじゃないはずだ