(1月の日記)
恐らく1〜2年くらい前にBlueskyか何かで言った話だが、近頃改めて考える機会が増えている。
類似する言葉の、『世界はそれほどあらゆる細部を必要としていない』というQuoteが脳を掠めて今日も夜である。
近頃はとても疲弊している。あらゆる仕組みの不誠実さに堪え兼ねた結果ではあるものの、能力不足を同時に感じる部分もあり、またしても一つの主張を取り出せばその言葉の表皮ばかりがついて回っては本質に至ることがない。大衆演劇の芝居の演目を淡々と演じているような生活に、空虚さだけが残っている。中身のないものに対しては、以前から変わらずに辟易としている。責任の重圧と、防ぐことができた労の裾がブルシットジョブとともに広がっていく報告を受ける度に、途方もない無力感が押し寄せてくる。
ここ数日の間は、本を開いても文書が入ってこないでいるが、ドゥルーズの『尽くされた』をこの間に読了した。可能性の実現よりも、可能性を尽くすこと。ドゥルーズやソンタグの批評は、いつだって作品の批評を通じたテーマへの真剣な眼差しを伝えてくれる。それは、あくまでも個人のフィルターを通じた解釈論という意味であって、作品の批評ではないと匙を投げるのはあまりにも物の見方が限定的ではないかと思うところが多い。表面の話にまたしても回帰する。
報道や日常の上澄を見ながら、またしても表面的で無意味なものに祝祭を挙げながら(クンデラの受け売りではあるが)また狂言のような浅ましい仕事をどのように矯正していくか試行錯誤している。